笠松紫浪(かさまつ・しろう)『一寸法師』
七日のBSで放送した『美の壺・スペシャル』は着物でした。お恥ずかしいことにシロガネは放送の事、知らなくってmayuさんのブログで知りまして、キチンと見ることが出来たのでした。
着物に対する様々な人達の思いや職人さん達の作業を見ることが出来改めまして、着物は掛け替えのない日本の文化であると、強く思いました。
現在休職中のシロガネですが、着物を作る側の人間として自分の携わる作業にもっと強い気持ちと、責任感を持ってゆこうと・・・・それにはまず病気を治す事ですが、元気になったらその事を良く頭に入れて作業にあたります。
大変な作業でもありますが、美しい作業でも有ります。事に染めや縫い絞り等は、これで好しという感じ出なく、更なる技術の向上を求められますから、終わりは有りませんでしょう。
お正月に悠仁親王殿下が仙洞仮御所に羽織袴で参内されましたが、ブータンの時と同様に一部からブーイングが起きております。
この国の文化伝統の最も分かりやすいものである、着物を批判して日銭を稼ぐなんて、まだまだ未熟者とはいえ、着物を作る側の人間として見過ごすことは出来ませんから、自分なりの反論をしました。
Twitterで宮様方の羽織袴姿の写真を載せました。そうしましたら、ビックリするほどの反響で面らっております。
上村松園 『春うらら』
新年の最初の日に皆さま、洋装のなか、礼装用の羽織袴を召されて、参内されたことは、日本人としてめでたく喜ばしい事なのに、酷い文句を言うなんて、可笑しな事です。
若宮殿下の羽織袴を貶したり等して、信じられない思いです。しかし最近は、皇室の知識乏しい人達がネットでアレコレと拡散しておりますので、
甲斐荘楠音 『春宵(花びら)』
今回の記事を書くことにしました。
松本一洋 『文』
羽織袴は宮中でも用いられてきました。羽織袴姿で参内されて皇族もおります。
実例は、
鏑木清方 『卯月の装い』
三笠宮百合子大妃殿下の故・高円宮の育児日誌『暁乃柊』にキチンと書かれておりました。高円宮様が『着袴の儀』を迎えられた後の妃殿下の記述です。
三笠宮百合子大妃殿下の故・高円宮の育児日誌『暁乃柊』にキチンと書かれておりました。高円宮様が『着袴の儀』を迎えられた後の妃殿下の記述です。
昭和三十三年 十二月二日(火)
「宮様、第四十三回御誕辰。憲仁、着袴。御兄様たちの召した御召に袴。御紋付羽織と着て人形のように可愛い。三時半頃、宮様と御いっしょに御礼の為参内(あいにく今日は皇居で比島ガルシア大統領夫妻の御晩餐あり、御忙しい為拝謁もなし。御申置のみ)。秩父宮邸、東宮様へも御礼の御廻り後、高松宮邸では両殿下いらっしゃってお目にかかりし由」
三笠宮様の羽織袴(着袴の儀の後に着用)
昭和三十四年 一月十五日(木)
「旧冬、憲仁着袴の折(お会い出来なかったため)、御所より御召があり、ついでに他の子たちもみんなで、との御沙汰。一時半に百合子五人同伴参内。吹上文庫。宮様も研究所より少し遅れて御参り、20程でおいとま。両陛下、東宮様、義宮様、清宮様御対面。憲仁は着袴の姿で。(中略)陛下が『もう窮屈だろから、袴をぬいでもいいよ』と再々おっしゃって下さるが、『イイ』と言ってそのまま。(中略)その後持参の洋服に着替える・・・(以下略)」
羽織袴姿の高円宮様(この姿で吹上の御文庫へ参内されました)
鏑木清方 『洋燈』
百合子妃殿下は5人のお子様の育児日記を5人分、成人されるまで毎夜書かれていらっしゃたそうです。凄い方です。妃殿下が育児日記をずっと書かれた訳は、ご自身余り、お体がご丈夫でなかった為で、万一の時に、せめてお子様方に、読んで貰おうという深い理由があった為なのでした。
横道にそれますが、戦後の時代に公務と子育てを両立させながらも、かなり追い詰められた赤裸々な思いも書かれていらっしゃいます。
背の宮でいらっしゃる三笠宮様が何気なく言われた言葉に妃殿下は『宮様のお言葉に悲しくなる』と書かれた後に、
昭和三十年 四月二十四日(日)
「(中略)夜になると、全く自分の用事がまだしていない事に気が付き、あと十分でも時計の止まっていてくれればいいなあと思うが公務、授乳、子供の勉強、学校の参観ーーを始めとして細々とした面倒な家事ーー何しろ昔四十人からの職員を擁してしていた仕事が少しも減るどころか増える一方なのに、何と職員は十人足らず。交渉ごと下され物、吉凶に関する事、それらをどんどん現金で右から左に片付けるのなら又易いが、この経済状態では中々それがむずかしく、到来物をそれぞれにふりあてたり、何とかありあわせようとその苦心たるや凄いもの」
「誰も助けてくれないので、すべての事にわたって自分から思いつき、しなくてはならない。心身共に疲れたという感じ。あと四年もこの状態でがんばったら上三人はもうかなりの年齢になるし、大分手もぬけて楽になると思うが・・・・。」
秋野不二
現在、週刊紙等で、紀子皇嗣妃殿下が„もう少しお金に余裕があれば・・・・„という事を言われていると、やや小馬鹿にした感じで、書かれているのを時たま見かけます。しかし、気丈な妃殿下がそう仰るのは、余程の事で、当然なことだと、百合子妃殿下のこの記述を読みまして、実感として理解できました。
皇嗣妃殿下の苦心、苦労を何も理解していない。
横尾芳月
・・・・羽織袴は確かに近代の宮中で用いられてきました。
昭和天皇
秩父宮様と高松宮様
高松宮様
三笠宮様
それは確かに間違いないのですが・・・・
恐らく紬の羽織袴姿の高松宮様
夏物(多分上布)の着物に袴姿の秩父宮様と高松宮様
着流し姿の高松宮様(何のお花を愛でられていらっしゃるのでしょう?)
これらの衣装が、御所風と言うと違います。羽織袴は、一般人と同じ着物でして、現在の女性皇族方がお召しになられている、訪問着や振袖と同じです。
一般的な訪問着や色留袖、振袖は戦前は影のものとされ、表の公務はあくまでも洋装でした。現在から見るとなんとも不可思議ですが、明治政府が洋装を皇室でも採用して欲しいと願い出て、明治天皇等は余り積極的出なかったとの伝えられておりますが、公式では洋装と決まった訳です。
明治初期は女性皇族は和装・・・・袿袴(けいこ)でした。鹿鳴館へ行くのも宮妃や女官は袿袴でした。園遊会の時も同じでした。外国人の評判もとても良く好評だったのです。
明治18年11月10日の園遊会・・・・当時は観菊会に出席したアメリカ人のジャーナリストで紀行作家(イザベラ・バードさんのような)エライザ・ルアマー・シッドモアの記述より。
『・・・・皇后はゆったりとした緋の袴を着け、薄紫の地に藤の花と白の皇室の紋章を浮織りにした長くゆったりとした着物を着ていた。長い髪を後ろで束ね、腰に垂らしていた。額際には金の鳳凰の飾りを着けていた。
そしてパラソルと古式の宮廷扇を携えていた。
昭憲皇太后所持だった、茶色地菊文様刺繍洋傘裂
袿袴姿の昭憲皇太后
鏑木清方 『初雁の御歌(小下絵)』
この小柄な女性は、気品に満ち、堂々としているので、周囲に感銘を与えた。
居並ぶ者はそろって低頭し、皇后の通過で目を上げ、うやうやしく、感嘆の眼でさらに皇后を追った。従う皇女や華族の夫人たちも、みな似かよった衣装をまとっていた。
錦の着物の多くは刺繍や金糸で堅く織られており、目も眩むような色彩効果を生んでいた。西の空は夕映えで美しくなり、皇后ご一行の列がもと来た道を戻られる。
伊藤小波 『秋草と宮仕えせし女人たち』
白、金色などさまざまな色の万華鏡的なきらめきが静な水面に反射し、ご一行の婦人たちが芝生の上に半円形に整列すると、そのシーンは鮮やかに映し出された。
皇后は御殿へお引き上げになり、一連の絵画はここで終わりとなった。幻想のような美しさだった。』
横尾芳月 『京の秋』
明治19年以降、洋装と決まってからは現在でも用いられているお長服・ローブ・モンタントやそしてローブデ・コルテ等洋装が中心となったのです。
横尾芳月 『春宵』
装束は御大礼の時、御成婚やそして祭祀等に着用されて、装束が公務、主に宮中行事に皇族方が、着用されることは有りません。考えて見ると可笑しな事です。
明治の時代は国策上どうしても洋装は必要でした。いわば戦闘服みたいなものでしょう。しかし現在は令和の御代はどうでしょう。装束というのも、大分身近なものになりつつあります。
装束関係の分かりやすい本も出版されて、Twitterでも装束をテーマにしたのも溢れております。
長い伝統と美しさを持つ装束を時代遅れの代物とバカにする人もいないでしょう。(一部はいるかもです)千家典子さんや守谷絢子さんのお式は袿袴と小袿長袴姿でしたが、それに関してブーイングは出なかったはずです。
むしろ流石、皇室のご婚儀だ凄い!!という声が多かったと記憶しております。皇室の伝統的衣装・・・・御所風のお衣装を公で着ても、何の問題もないことがハッキリしたのでした。ましてや着物なればなおさらです。
紀宮様の時はまだそうゆう自信がなかったのか、装束について余りにも浮世離れ過ぎて、国民の感性と噛み合わないと思われたのか、残念なことに、洋装でした。披露宴は母宮様の訪問着でした。素敵でしたけども世の中、母親の結婚式等で着た振袖を娘が着る例はいくらでもあります。
上村松園口絵 『長閑』
しかし、中年の母親が着用した訪問着を披露宴で娘が着るなんて紀宮様位でしょう。紀宮様は控え目なご性格でいらっしゃると聞きますが、
栗原玉葉口絵 『静御前』
母宮・美智子皇后が、娘の一番の晴れ舞台に、新調は無理でもご自分が若き時にお召しになられた、国宝級の振袖を着せるとか、何としても着るよう説得すれば良かったのです。
池田焦園 『中幕の後』(アンティーク絵葉書)
それと小袿も。百合子大妃殿下が所持なさっておられる貞明皇后伝来の小袿は紀宮様もお召しになられても問題はなかったのです。同じ貞明皇后のお血筋を引いていらっしゃるのですし、ましてや昭和の内親王方の小袿はなおさらです。
慈愛深い美智子皇后、現在の上皇后様は一人娘がいつかお嫁に行くときにとそっと花嫁用の振袖を誂えておかなかったのでしょうか?
栗原玉葉口絵 『衣かえ』
ちょっとこの点は不思議です。
話が逸れてしまいました。悠仁親王殿下のような未成年の御所風の衣装も勿論あります。装束では半尻・水干・童直衣等。
松本一洋 『あはれなり』
皆、袖が長くて広い装束です。しかしその一方で、お正月のような目出度い時に参内するのに相応しい装いは・・・・
振袖に白長絹の袴姿が相応しいでしょう。
以下は尼門跡院所蔵の御所人形です。
宮中独自の“左巻き„文様の振袖に長絹の白袴
鴇色山繭縮緬の振袖に白長絹の袴
公家の堤家に産まれ、後に大名家の亀井家の養子になった亀井滋明の幼少時代の写真(明治元年頃)。つまり公家の時代の姿。髪は御所人形と同じく、稚児髷です。
京都尼門跡院、大聖寺に所蔵されている大正天皇の三歳時等身大のお人形です。ご生母の柳原愛子様が作らせました。
お人形様が着ている着物と同じ着物を着ている御所人形。絣柄に御召しだと思います。
昭和時代の御所風のお召し物
玉舎春輝 『春興・其一』(二枚ともアンティーク絵葉書)
玉舎春輝『春興・其二』