高松宮喜久子妃殿下の雛人形(現在は静岡県が所蔵しております)
黒漆塗葵の御紋蒔絵の雛道具
もう一年以上も前に、今回の記事を書こうと思い、2006年3月12日に放送された『皇室日記』のDVDを探しだし、インタビューの言葉をノートに書き写しました。しかしその後、他の事に関心が出て結局はこの貴重なインタビューは書かれじまい。しかも、録画したDVDが、又分からなくなり、探すのも、面倒なので、今日まで、そのままにしてしまいました。
mayuさんのブログで、『李王家の縁談』の事を取り上げられており、又、『徳川おてんば姫』も取り上げられておりましたから、何かの役に立つかもと思い、昨夜いろいろと探しだして、見つけました。こうしてやっと後回しにしていた事が、出来て、こちらもほっとしております。はい。宿題を終らす事が出来ました。(笑い)
榊原喜佐子さんも井手久美子さんご姉妹は徳川公爵家ご出身で、岩崎藤子さんは外交官の伊集院男爵家の生まれで、母君は大久保利通の一人娘の芳子。つまり藤子さんは大久保利通の孫になります。
藤子さんのご両親、伊集院彦吉氏と芳子夫人
高松宮喜久子妃殿下は
『菊と葵の物語』
岩崎藤子さんは
『九十六年なんて、あっと言う間でございますー高松宮宣仁親王妃喜久子殿下との思い出ー』
榊原喜佐子さんは
『徳川慶喜家の子供部屋』
井手久美子さんは
『徳川おてんば姫』
それぞれの著作があります。
旧華族のご婦人方のこうした思い出話ははもう、聞くことはないでしょう。令和の時代になっては、とても貴重なインタビューだと思います。
杉上アナウンサー
「・・・・高松宮妃が亡くなられて、およそ一年が経ちました」
久能アナウンサー
「今日は高松宮妃喜久子様の特集としてお二人の妹君とご学友に妃殿下を偲んで頂くことにします」
久能アナ
「昭和天皇の弟君、高松宮様と妃殿下の喜久子様です」
「徳川慶久公の次女としてお生まれになられた喜久子様の二人の妹」
「榊原喜佐子さん」
「井手久美子さん」
「つまりお三方は、徳川慶喜公の孫にあたります」
「また現在でも高松宮癌研究基金の理事を勤めている岩崎藤子さん」
「岩崎さんは、喜久子様とご学友で公私にわたり、80年以上のお付き合いがあった方です」
久能アナ
「お小さい頃のですね妃殿下は、どういうご性格の方でいらっしゃたんですか?」
井手久美子さん
「大変やんちゃで・・・・兄の方がおとなしくって、何か妃殿下が兄にお人形を持たせたら、兄が、ず~~とそれを抱いて持っていたと、そしてそれを(妃殿下が)忘れて何処かに行っておしまいになられたと」
榊原喜佐子さん
「そうね・・・・。そうそう」
「なかなかやんちゃでいらした様で御座います」
久能アナ
「あの当時はですね・・・・ずいぶん早くから、あの~~お嫁入りというのが、決まるというのが伺ったのですけど、随分、お早かったんでしょう?」
榊原喜佐子さん・井手久美子さん
「ハイ、ハイ」
榊原喜佐子さん
「あの~~妃殿下の場合は、もう、格別にお早いんですよね。何か三つの頃から伺って(笑い)そりゃもう、あの~~母がね常に・・・・」
有栖川宮家ご出身の徳川実枝子様
「『お姉さまは雲の上にお上がり遊ばず方だよ』といつも仰って」
「ご教育も全て先生方が沢山お付けになってらしたし、ん~~大違いで御座いましたね」
実枝子様がお持ちの扇子は恐らく昭憲皇太后より賜った扇子、“象牙御紋付金蒔絵御扇子„でしょう。
この後、約100年経ってネット界を騒がすことになるなんて、誰が想像したでしょうか??
久能アナ
「喜久子様が高松宮様とご結婚されたのは、昭和5年2月4日、当時、喜久子様は18歳でした。
「結婚されて2ヶ月後には、昭和天皇のご名代として、欧米26ヶ国を訪問されましたが、その時の両殿下のエピソードも伺いました」
岩崎藤子さん
「わたくし、あの~~お立ちになる前に外国へ行ったら『手紙を大使館からでいいから出しておいてよ』と仰ったので、何か2回ほどお手紙を差し上げましたら・・・・」
『藤子さんのお手紙ありがとう。とても嬉しかったわ』と書いて、おわりになって・・・・『読もうとしたら、宮様に追っかけられてベッドの回りで追っかけごっこしちゃったの。それで抱き締められて取られちゃったの』んて書いておわりになって・・・・」
榊原喜佐子さん・井手久美子さん
「キャハハ・・・・」
岩崎藤子さん
「本当に仲がおよろしくって・・・・」
妹君方
「本当にね」
久能アナ
「とても非常に仲がおよろしかったと伺ってるんですが、結婚なさってからも、色々、行動的な事はおわりになったようで御座いますね・・・・」
井手久美子さん
「ハイ、わたくしね、昭和34年に、あの~~免許を取りまして、妃殿下も同時にお取りになったんです。良く、霞ヶ浦とか、さんりんつかの御料牧場にお出ましに」
「妃殿下もう、スピードをお出しになるんですね、白バイには捕まる、皆さん命懸けでいらしたと思うんですよね」
榊原喜佐子さん
「アハハハ」(大笑い)
「本当、お飛ばしになるんで」
一同大笑い
久能アナ
「何か、伺った所によりますと、お忍びでどっかへお出かけになったんですか?」
岩崎藤子さん
「銀座に何回か、二人で参りました。『殿下のネクタイを買うから一緒に見てよ』と仰って、困ったのは、和光の所で信号は赤なのに、平気でお歩きになる」(苦笑い)
(岩崎さんはそんな妃殿下を引っ張る仕草をされる)
榊原喜佐子
「キャハハハハ」
岩崎藤子さん
「帰りに地下鉄に一度、乗りたいと仰って・・・・切符を買いまして、妃殿下・・・・丁度、電車が参りましたんで、腰かける所がなくって入った所のこう、アレに掴まって、『切符見せて』と仰って、切符を差し上げたら」
「嬉しそうに・・・・『頂戴ね』と仰って、(その言葉に岩崎さんが)『駄目ざんすよ』アハハハ・・・・」
一同爆笑
久能アナ
「戦後の喜久子様は、高松宮様と共に社会福祉活動に尽力されましたが、昭和61年、高松宮様が癌である事が判明・・・・宮様には癌であることを告げられぬまま翌年の2月にお亡くなりになりました・・・・」
久能アナ
「妃殿下は、ですね・・・・大変熱心にあの~~熱心に看病なさったんでしょう」
榊原喜佐子さん
「そりゃもう・・・・」
井手久美子さん
「良く、遊ばしました」
岩崎藤子さん
「『殿下がお気付きにならない様にすることは・・・・大変な事なのよ』とよく仰ってましたし」
井手久美子さん
「テラスの方にね、あの~~リンゴか何かをお置きになりまして、木の枝に、鳥がとっても来るんですよね、それがとっても、殿下がお楽しみで・・・・そうゆう事や何かをね、随分、妃殿下は良く遊ばしていらっしゃいました」
久能アナ
「そうしますと、木にリンゴを差しとくんですね」
井手久美子さん
「どちらにもお出になれないので、とっても、その鳥が来るのをお楽しみで・・・・」
久能アナ
「両殿下はね、あの~~出来るだけこう、国民と接したいという事で、御殿ではね、珍しく、警備が珍しく門の所におりませんでしたけどね」
岩崎藤子さん
「妃殿下も、それをおっしゃったざますけど『皇族というものは、警察に守られたくない、国民に守られてゆくようにしなければならない』」
「『皇族は、お国の為、陛下の為、国民の為に、仕事をするものだよ』とよく殿下が仰って、だからお巡りさんが人を退けると、そのお巡りさんをお怒りになる」
井手久美子さん
「おいやなのよね、それはとっても」
岩崎藤子さん
「『そんな事をするもんじゃない』と仰って・・・・」
久能アナ
「平成5年、喜久子様のインタビューです」
喜久子妃殿下
「今は、四人に一人が癌です。だいたい20万人位が、死んでいるんです。ハイ、その仕事がわたくしとしては、大事だと思っているし」
「それから、あとは、宮様から、お譲りした仕事が色々と御座いますども、今は、力を入れなければ、なんないのは、癌じゃないかと思って・・・・おりますけどね」
久能アナ
「妃殿下が亡くなってからも、わたくしは何回も、お邪魔しているのですけど、妃殿下が亡くなってからも、庭にある薔薇も、何となく寂しげですけどね・・・・」
高松宮喜久子妃殿下 『富士乃図』
2007年の『皇室日記』で喜久子妃殿下を特集しておりましたので、その時の映像を載せます。
山梨県身延町の『美枝きもの資料館』で開催された喜久子妃殿下を偲ぶ特別展。妃殿下亡き後に、寄贈された洋服やお着物等。
戦後の一時期に宮中で着用されたお掻取。
式典等の時に着用された洋服です。
妃殿下が幼い頃にお召しになられた振袖
こちらの振袖は御所風のいわゆる『御縫御召し』です。恐らく、母君のご実家の有栖川宮家から送られたのではないでしょうか?
こちらは喜久子妃殿下がご生前にご使用された調度品や小物です。
妃殿下のご生前のお居間を再現されたお部屋です。
現在は上皇・上皇后両陛下がご使用されております。
お次(侍女)を呼ばれる時にご使用されたベル
妃殿下がご使用された品々。
きちんと削られた鉛筆
岩崎藤子さん
「尖っていないと、お嫌でしたのよ」
小さい可愛らしい小物がお好きでいらした妃殿下が、集められたコレクション。
海外へ行かれた時にお買い求めになられたベル🔔