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上村松園 《春の野図》
出発は刻一刻と近付いていました。白菊の姫宮は高鳴る胸の鼓動を嫌でも感じずにはいられませんでした。
この数年間の、決して大げさではない辛酸を舐めた自分が愛する人の元へ行くこと出来る・・・・それは何と幸福な事であろうかと、そう思う度に態度や言動に出さずにはいられなかったのです。
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三浦環 《蝶々夫人・ある晴れた日に》
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関口真緒 《蝶々夫人》
『ある晴れた日に、見るでしょう 一筋の煙が立ち昇る
海の向こうの端で そして、船が現れる。
やがてその白い船は 港に入り、音を鳴らし 挨拶するのよ。彼が着いたのよ。
でも私は彼に会いに行かない 私は違う、そこに立つのよ 丘の端で待っているのよ じっくり待つの 気にしないわ 長い待ち時間なんて
すると、町の人込みから 人がひとり、点のように 丘を目指して来る。
誰なの?誰かしら?彼はどのように来るの?何て言うの?何て言うのかしら?彼は蝶々を呼び出す 遠くから
私は答えずに 隠れていましょう いたずらが少しだけど 死なないように 最初の出会いで
彼は少し心配して 呼ぶの。小さな奥さん。バーベナの香りの君よ、彼がくれた名前よ 彼がここに来た時に
全て実現するわ。あなたに約束するわ あなたは心配しているけれど、自信を持って待っているのよ。』
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鏑木清方 《お蝶夫人》
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そんな夢心持ちを覚まさせたのは若竹の宮の声でした。
「じゃ、そろそろ時間だから行くから」
若宮の声が大分低くなったと感じながら姫宮も長姉らしく
「もう時間なのね。そう。気を付けてね。学校でも喧しく言われて、若宮には嫌な思いをさせてしまって、これだけは、何時もすまないと、思っていたのよ」
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米内穂豊 《源為朝》
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若宮はじっと姉宮の顔をご覧になり、
「それは平気。では・・・・」
そう言われると、姿勢を正されて
「本日の良き日をお迎え遊ばしておめでとう御座いまする。今日一日、万事、万事ご機嫌良く、おするする(ご無事に・御所言葉)と、お済みに成られる事を心より、お祈り申し上げまする」
「又、内親王様としてのお務め、長い間ご苦労様で御座いました」
その様なお祝いの言上と、今日を持って内親王の位を下りられる姉宮の労りのお言葉をかけられました。
お祝い口上等の言葉は母宮・清香皇嗣妃殿下が色々先例等、調べたり、お子様の多い、春日宮家の現当主、由貴君様・・・・大妃殿下の元を直接訪ねてお聞きになられたりされてお決めになられたのです。
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門井掬水 《からくり人形》
長い言葉を若宮はよどみ無くしっかりとされた口調で言われたので、白菊の姫宮と撫子の姫宮方、何よりも皇嗣両殿下は、ホッとされて思わず笑みが零れました。
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米内穂豊 《源為朝》
白菊の姫宮は感慨無量といった感じでした。
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高畠華宵 《乙女の日》
思わず抱き締めたい気持ちになりましたが、それは、若宮から強烈に拒絶されるだろうと思い・・・・
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高畠華宵・挿絵
辞めまして、姫宮はニコニコされて、
「ありがとう御座います。若竹も元気でね、ご機嫌よう・・・・・」
「大姉様も。ご機嫌よう」
お互いに頭を下げて、お互いに言葉を交わしました。
「じゃ、行って来ます」
その言葉を聞くと何だか名残惜しくなってしまい
「玄関まで見送るわ」
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白菊の姫宮はそう言いました。妹宮の方をご覧になると、「一緒に」と小声で言いました。撫子の姫宮は、「ハイハイ」と笑いながら、
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高畠華宵画
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「一緒に行くわ、若竹は玄関で又お祝いの言上を言わなくちゃね~~」
「嫌だよ。おもう様、おたた様、行って来ます」
若宮がご両親にも言われると、
「うん、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいませ」
皇嗣両殿下は、それぞれ声を掛けました。お三方が部屋を出られると、皇嗣殿下は
「三姉弟のやり取りは、しばらく聞けないな」
「・・・・そうで御座いますね」
込み上げる様々な感情を押さえ込みながら、妃殿下は殿下の言葉に答えられました。
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高畠華宵 《磯の歌声》
相変わらずヘリの音が聞こえるなか、両殿下はお互いにそれぞれの思いに耽っておりましたが、姫宮方が戻られると、四人方は、お居間に移られて、ソファーに座られて、刻が来るまで、そちらにおりました。
「失礼致します」
紺染地に大きな亀甲文様を織り出した大島紬に小柄な花七宝の緞子の帯を締めた、侍女の涼風がお茶を持ってお居間に入って来ました。
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門井掬水 《お点前》
テ―ブルにお茶を置きましたが、今日のこの日ですので、涼風の顔も緊張感に満ちていました。
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元既婚者の涼風は自分の結婚式の時並みに緊張しておりました。
「ありがとう」
「ご苦労様」
等、皇嗣両殿下と撫子の姫宮方は仰いましたが、白菊の姫宮は根無氏からLINEが来ていましたので、スマホの方に目がいっていましたので、気が付くのが遅れて、
「あ、ありがとう」
と言われましたが、直ぐに視線をスマホに向けました。
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甲斐荘楠音 《椿姫》
娘の表情から、誰からは察しが付いていましたが、妃殿下は姫宮のその姿を見て、根無氏がこの家族に無遠慮に入り込んだようで、嫌悪感を持ちました。
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そんな根無氏とやり取りする娘の姿にも何とも言えない気持ちになるのでした。
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甲斐荘楠音 《幻聴・踊る女》
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個性と我の強い義理の母宮、皇太后陛下と同じく義理の御姉宮(おんあねみや)であらしゃる皇后陛下のお二人の対応に大層苦慮されていらっしゃる妃殿下ですが、そのお二人方の方がまだまだ・・・・と思うのです。
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鏑木清方 《流水》
「恐れいります、お時刻で御座います」
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小早川清
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奥向きを取り仕切る老女の花吹雪が、入口から声を掛けました。これから形ばかりの『入第の儀(じゅだいのぎ)』が今、始まるのです。
内親王がご降嫁されるとき、婚家先の親族のご使者が内親王様を迎えに参る『入第の儀』、しかし根無氏の家にはなかなか成り手がいなかった事と、今回のご結婚は万事お手軽に、と言うのが、御所方の御意向でした。
全てが内々に・・・・それでも形式は守らないと、言う訳ですので、致し方無く、記者会見が行われるホテルまで送る佐義宮皇嗣家の運転手と、一緒に付いて来る警護の者が、その使者となってもらったのです。
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羽石弘志 講談社・絵本《楠木正成》
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嶋お召に扇子と鶴の吉兆柄の金欄の帯を締めた、花吹雪でしたが、これが本来のご降嫁であれば、黒留を着るのが当然であるのにと残念無念と思うばかりでした。内心は腹を相当立てていました。
「恐れいります。本日は、白菊の内親王殿下には、ご機嫌良くめでたく、ご結婚されること、心よりお喜び申し上げまする。恐れながら、皇嗣殿下の仰せによりまして、内親王殿下をお迎えに上がりました」
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羽石弘志 講談社・絵本 《楠木正成》
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皇嗣家付きの運転手は流石に優秀でしたので、参上の言葉も、すらすらと言い、その立ち居振舞いも立派でしたので、誰もが、かえって良かったのではないかと、思ったのです。
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鏑木清方 《日本橋》
『入第の儀』の口上の時も乱れる心持ちでお聞きになられていた妃殿下は、
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(嗚呼・・・・いよいよその時が来てしまう)
多くの国民がまだ納得していない状況での結婚は、これで良いとは思えず、我が娘の行く末を不安に思うばかりでした。
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鏑木清方 《薫風》
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姫宮自身が自ら望んだ結果とは故、未だに根無氏に対して、信頼感を持てない妃殿下は、こらから先の不安と、30年間手元でその喜怒哀楽共に過ごしてきた、白菊の姫宮との別離と悲しみに、心は乱れ引き裂かれるる思いでした。
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近藤紫雲 講談社・絵本 《静御前》
これも・・・・自分のような、これという後見が居ない身の平庶民の出で、分不相応に皇室に上がってしまった代償なのかと思っておりました。又これから先、世間と言う荒波を身を持って知るだろう温室育ちの娘の身を案じながら、白菊の姫宮を見つめておりました。
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森昌子版
《おんなの海峡》
『別れることは死ぬよりも もっと寂しいものなのね 東京を捨てた 女がひとり 汽車から船に乗り換えて 北へ流れる 夜の海峡 雪が舞う
砕けた恋に泣けるのか 雪が降るから泣けるのか ふたたび生きて逢う日はないと
こころに決めた旅なのに みれん深まる 夜の海峡別れ波
命と想う愛も無く 海の暗さが眼にしみる 汽笛よ波よ教えておくれ 私の明日はどこにある こころ冷たい 夜の海峡ひとり旅』
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近藤紫雲 講談社・絵本《静御前》
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