蕗谷虹児 《別後哀愁》
(私の役目は終わった。もうこのまま、ここに居る必要は無い。嗚呼・・・・疲れてしまった。神様はこんな私の事まできちんと見ていらしたのだわ)
加藤まさを 《春の宵》
白菊夫人がそう、思い定めたのは、夫の根無氏が弁護士に遂に合格したと知らせを受けた時からでした。それ以前より夫人は心身の不調で、人に知られないよう、ことに日本人には・・・・隠れるように、心療内科へ通っていたのです。
自由を求めてもそれが幻想であった事が身に染みて分かりました。責任を放棄した人間に一体何の自由が与えられましょう。その意味がこうした心の病となって良く分かったのでした。
愛する人との生活が始まったというのに、夫人は孤独でした。誰も見知っている人も居ない、何もかも初めて尽くしの環境のなかでの生活・・・・。
初めは物珍しさもありましたが、段々と、その生活が重荷となってストレスになってきたのです。
最愛の妹の撫子の姫宮や母宮とはLINE等で会話を交わし、仲の良かった友人達共同じでしたから、決して孤独では無いはずでした。
高畠華宵 《秋の便り》
なのに、心が満たされる事は有りませんでした。
とても寂しい・・・・寂しい・・・・その気持ちがどうにも高まってゆき、やがて身体が心が悲鳴を挙げ始めましたのです。
森田久・口絵
(日本が恋しい、赤坂の御用地の木々の緑、美しい花々・・・・あぁ!撫子、若竹、おたた様、おもう様!!)
河崎蘭香 《和楽之図》
日々接してきた職員までもが、堪らなく、懐かしく恋しくてならなくなってきたのでした。
かの・・・・
“じゃがたらお春”の文のように、
『あら日本恋しや ゆかしや 見たや 見たや』
そんな状態になってしまったのでした。以前は、愛する人との一緒の生活。しがらみの無い立場。けれども、元皇族としての立場は、思うように上手く活用して生きてゆくのだという計画を立て、その為の準備も念入りにしてゆきました。
高畠華宵 《夏の宵》
その結果、日本領事館の職員達からは手厚いサポートを、受けての生活でした。端から見れば、何と羨ましい人だろうと、写って見えていた事でしょう。
蕗谷虹児 《嬉しい日》
白菊夫人はそのサポートは当然の権利であり、私は上手くやっている、と思っておりましたが、しかしそれは表のみでした。
高畠華宵
表に出れば、確かに相談相手はおりましたし、ここニューヨークでどのように生きて行けば良いのかという助言も受けておりました。
根無氏との夫婦生活はまず第一に、ニューヨークで弁護士に合格するのが、何よりも優先させる事でした。弁護士に合格しなければ、夫婦のこらから先の生活の基盤がなり立たないのです。
夫人はそれを分かっていましたので、皇族時代から自身のお化粧料を節約して、資金を積み立て、運用までしていました。それをニューヨークでの生活費として使用してきました。
自らの強い意志で、根無白菊となったうえは、何としても、夫が弁護士となるよう、妻として尽くさなければならない。余計な雑音を勉学に勤しむ、夫の葛(かつら)の耳に・・・・入れたくない。そう思い、自身の不安定な気持ちはぐっと堪えて、伝えずにいました。
高畠華宵 《春怨》
白菊夫人のそうした思いは、これは・・・・勿論意地でもありましたが、その一方で母宮・清香妃殿下譲りの気丈さでもありました。
蕗谷虹児 《新緑》
しかし、母宮の気丈さの根本のそれは、父宮への深い愛であり、ほぼ庶民の民間から皇室へ上がった時から生涯を、皇族の人間として生き抜いてゆくという覚悟からでした。
母宮のそのような覚悟を決めさせたのは、父宮の母宮への理解と愛でした。
「庶民には庶民としての物の見方や基準があります。同じく皇族には皇族としての見方や基準があるのですよ」
加藤まさを
と・・・・いつかの時におっしゃておられた事を、思い出す白菊夫人でした。
(私は、葛の為に本当に、ここまで出来るのだろうか)
かつて日本にいた時、起きたさまざまな問題を改めて、客観的に考えてみました。あの時はマスメディアが勝手に妄想を膨らまし、一の事を十に仕立てて、自分達方が被害者だという思いが、強くありました。
高畠華宵・挿絵
又過激なマスコミを鵜呑みにして結婚を反対した国民に対して、我が敵だと言わんばかりの態度を取ってしまったのでした。
しかし現在、机に向う夫の姿を見て、本当に自分達は被害者であったのかと幾度かそう思い始めました。
(夫にその価値はあるのだろうか、同じく私にも夫から見てその価値があるのだろうか)
夫人は良心の呵責にさいなまれるようになってきましたが、ただ間違いなく互いに一致している事は・・・・
(お互いの目的の為に、私達は利用し合っている)
加藤まさを
夫人は皇室という、狭い世界から抜け出したいという願望から、葛氏は自分のステータスのアップの為に皇室を利用する為に。
その点はお互いに納得したうえの結婚でした。しかし初めて二人で暮らすようになり、事に夫人は全く違う環境で戸惑う事が多々あり、様々思い悩んで心は不安定となっていきました。
加藤まさを・挿絵
夫の葛氏には、自分の心の内を晒す事は出来ませんでしたが、逆に何事もストレートな葛氏からは、様々な愚痴等を言い、夫人はその聞き役となっていました。
弁護士になるのが、葛氏の目標でしたが、他の道がないのかと、結婚してからはそれを模索する所があり、地に足が付かない所がありました。
高畠華宵・挿絵
そうした態度は夫人を不安にさせました。葛氏を信じて頼っていきたいとは思うのでしたが、日々間近で接する葛氏にはそれは出来ないと、どうしても実感として感じるのです。何か今まで築いてきた大きな壁が崩れゆくような感覚を覚えました。
高畠華宵 《人形》
その崩れゆく音、その音を聞きたくないと耳を塞いでもその音は耳から離れず、夫人の苦悩は深まるばかりでした。
蕗谷虹児 《睡蓮の夢》
『セカンド・ラブ』中森明菜
恋も二度目なら 少しは上手に
愛のメッセージ 伝えたい
あなたのセイター 袖口つまんで
うつむくだけなんて
帰りたくない そばにいたいの
その一言が 言えない
抱き上げて連れてって時間ごと
どこかへ 運んでほしい
せつなさの スピードは高まって
とまどうばかりの私
恋も二度なら 少しは器用に
甘いささやきに 応えたい
前髪を少し 直すふりをして
うつむくだけなんて
舗道に伸びた あなたの形を
動かぬように 止めたい
抱き上げて 時間ごと 体ごと
私をさらってほしい
せつなさが クロスするさようならに
追いかけるのはイヤよ
抱き上げてつれてって 時間ごと
どこかへ 連んでほしい
切なさは モノローグ胸のなか
とまどうばかりの私
高畠華宵 《良夜の窓辺》
葛氏を愛しているの気持ちは変わらないのに、心身の不調は深まり、寝たり起きたりする日々が続いていました。頭が重く体がだるく、食欲もなく、ただ野菜ジュース等を飲んだりしていました。夜上手く寝られず、頭は冴えて、様々考え込んでしまうのです。
加藤まさを
葛氏と出会って10年・・・・女として、そして若さという時間を全て捧げてゆきました。様々な事があっても、それでも別れるという選択をせず、遂にこうして一緒に生活を共にして人生を歩むまでになったというのに・・・・。
しかし現実は特に体調が悪くなるのは、夫の葛氏が自宅にいる時でした。一日中家にいる人ではありませんので、居ない時は不思議と体の調子が良くなるのです。
その時に、家事や夫人がすべき事をこなすのですが、葛氏が帰宅してからは、又段々と調子が悪くなってゆくのです。
葛氏は慣れない環境で疲れがだたのだろう、領事館の人に紹介してもらって、いい病院を、紹介してもらったらどうかと、言われ親しくなった領事館の人に紹介して貰い、病院へ診察して貰い、心療内科へ通うようになりました。
隠す事が出来ないので、母宮や撫子の姫宮方には自身の不調を知らせ、自分の正直な気持ちを伝えました。二人からは、申し合わせたかのように同じ内容で・・・・
『急に帰りたいと言われても、自分から望んでアメリカに住んで、皇族の身分も離れてしまったのだから、いきなりこちらに帰るとか、無理に決まっているでしょう』
高畠華宵・挿絵
その言葉を聞いて夫人は、何の返す言葉も有りませんでした。
加藤まさを 《昔の夢》
一方で葛氏は
「一旦帰ったらどう?正直な事を言うと、これから先は忙しくなっていくんだよ。白菊がそのままだと、俺は面倒は見られない」
「白菊の体の悪さが、周りに変な風に取られると、誤解されて変に信用が落ちたりして、こちらが本当に困るんだよ」
そう言うのでした。葛氏もやっと道が拓けてきたのです。ここで止まる訳にはいかないのでした。
白菊夫人は葛氏の言葉を聞いて、正直な人・・・・と思いながらも、
「葛はやっと夢の一つが叶ったのだもの、私は葛の重荷にはなりたくないの、日本に帰る方が良いでしょ。私が帰れば、あなたはマスコミから変に話しかけられずに済むし」
「嫌な思いばかりかけさせてしまって、悪いと思っているの」
「それは白菊が悪い訳じゃないだろう。約束があるから、もういくね」
「あらご免なさい。そうなの。行っていらっしゃいませ」
早苗・口絵
『つぐない』テレサ・テン
窓に西陽が あたる部屋は
いつもあなたの 匂いがするわ
ひとり暮らせば 想い出すから
壁の傷も 残したまま おいてゆくわ
愛を償えば 別れになるけど
こんな女でも 忘れないでね
優しすぎたの あなた
子供みたいな あなた
明日は 他人同士に なるけれど
心残りは あなたのこと
少し煙草も ひかえめにして
過去に縛られ 暮らすことより
私より可愛い人 探すことよ
愛をつぐなえば 重荷になるから
この町を 離れ 暮らしてみるわ
お酒を 飲むのも ひとり
夢をみるのも ひとり
明日は他人同士に なるけれど
愛をつぐなえば 別れになるけど
こんな女でも 忘れないでね
優しすぎたの あなた
子供みたいな あなた
明日は 他人同士になるけれど
加藤まさを
そう言うと、出掛ける葛氏を見送る白菊夫人でした。その後、夫人は母宮に今までの自身のおごり詫びる内容の手紙を書き送りました。
高畠華宵・挿絵
その頃、皇嗣邸の改修工事が無事に終わりましたが、その多額の費用が一部の世間から非難に晒されていました。しかしそんな世間の批判も関係なく皇嗣家には公務や祭祀等の予定もあります。その忙しいなかで新しい邸宅に移る準備で皇嗣邸は、慌ただし有り様でした。
高畠華宵 《桃色の部屋》
娘の夫人の病状は妃殿下も承知しておりました。自身が出向く訳にはいかず、こうなる事は必然であったと思ってもいました。しかし母心としては、夫人の孤独な心情を思い、苦悩しておりました。
『乱れ髪』
髪のみだれに 手をやれば
赤い蹴出(けだ)しが 風に舞う
憎や 恋しや 塩屋の岬
投げて届かぬ 想いの糸が
胸にからんで 涙をしぼる
すてたお方の しあわせを
祈る女の (さが)かなし
つらや 重たや わが恋ながら
沖の瀬をゆく 底びき網の
船にのせたい この片情(かたなさけ)け
春は二重(ふたえ)に 巻いた帯
三重(みえ)に巻いても 余る秋
暗(くら)や 涯てなや 塩屋の岬
見えぬ心を 照らしておくれ
ひとりぼっちに しないでおくれ
意味・・・・
《乱れている髪を触ったら、赤い蹴出し(裾よけ)が風になびき出した。憎くも恋しい、塩屋の岬。「あなたが好きです」という想いの糸を、託して投げてもあなたには届かない。
その糸が私の胸に絡まって私は涙を流しました。私を捨てたあの人の幸せを祈っている私は何て悲しいのでしょう。
沖に出てゆく舟に、辛く重い私の想いを乗せて行ってくれないだろうか・・・・。
春は二重に巻いた帯は秋には三重に巻いても余るほど私は痩せ細ってしまった・・・・。
暗くて果てない塩屋の岬。自分でも見えない、私の心を明るく照らして欲しい。一人ぼっちは嫌なのです》
鏑木清方 《金色夜叉・挿絵》
夫人からの手紙を受け取った妃殿下は、娘のこれまでのさまざまな事を思い出されて、複雑な思いで読まれました。しかしその文面から伝わる娘の孤独と苦しさを思いやられ、たとえ甘いと言われても、やはり帰国させるべきだとお考えになられました。
兎も角、皇嗣殿下にご相談しなければと殿下のお部屋に行かれました。