一燈園・三上和志著「人間の底」に学ぶ
『人間の底』
昭和の初め、風雲急を告げる社会・経済・金融体制の崩壊と混乱の時代、瀬戸内海沿いのある漁村、海岸沿いの街道が山間の谷の方向に延びる街道と交差する三叉路近くにあったうどん屋の2階に住む店の客引き接待役の女性店員の子として中田卯吉は誕生しました。
しかし、間もなく母は、幼い中田卯吉を2階に置き去りにして、その頃店に出入りをしていた客の男性と行方をくらましてしまいました。
卯吉は、近所に住む母の兄弟の家に引き取られましたが、その家族とりわけ子供たちとの折り合いが悪くていじめられるため、その家を10歳のころに飛び出して一人放浪の生活を始めました。
しかし、大方は薄暗い神社の床下の土間の上に、近くの農家が捨てていた破れたむしろを拾ってきては、蜘蛛の巣や蚊を払いながら、それを畳代わりに敷いて寝泊まりしていました。昼間は、近所をうろうろしていましたが、時々板塀越しに小さな女の子の泣き声が聞こえるので,その板塀の節穴から覗けば、兄におもちゃを取り上げられて泣きじゃくっている女の子が目に入りました。
卯吉も一人で寂しかったので、その女の子に優しい声をかけて「一緒に遊ぼうよ。」と誘ってやりました。女の子は喜んで塀の外に出てきて、卯吉の神社の床下の筵の上に座って遊んでくれました。そして、時には、その女の子が家で蒸したサツマイモや焼いたおせんべいを持ってきてくれて、一緒に食べたりしたこともありました。
そういった小さな幸せを感じる時もありましたが、いつまでも同じ神社の床下や縁の下に筵を敷いて住み続けることは許されず、再び放浪の生活を続けることになりました。
やがて15歳の頃、長年続いた食べものや栄養不足のひもじさと夏の暑さや冬の寒さにこらえきれず、次第に体力が弱ってきて、遂にその時代に流行っていた死病の「結核」に取りつかれ病み始めました。ある時、道に行き倒れていましたが、通りがかりの人の親切で近くの病院に運ばれ、また結核療養所に送られて療養生活を送ることになりました。
丁度その頃、京都山科にある“社会奉仕を通じて自らを高めようとする宗教団体”である「一燈園」に所属する講師の三上先生が、その療養所に不治の病にかかって苦しみ続けている病人の心に「癒し」をもたらす奉仕活動の途中で立ち寄られましたが、そこで、療養所の看護師や医師などから、「心がひん曲がってしまっていて手におえない病人がいて困っている。」という嘆きの声を聴かれました。
それが中田卯吉でしたが、親もなく身寄りもなく社会から見放されたような生活と、飢えと暑さや寒さを耐え凌ぐだけの長年の放浪生活の中で、人の心の温かみに触れることがなく、療養所に収容された時は、既にその着物はボロボロで、体が弱ると同時に心はすっかりとひん曲がって、反抗的になってしまっていたのでした。
しかし、三上先生は卯吉の病室を度々訪れ、卯吉の幼い時から親からも捨てられて孤独で神社の床下に筵を敷いて一人寂しく暮らさざるを得なかった哀れな物語を繰り返し何度も聞かれては、三上先生の親切な言葉や態度に心の温かみを少しずつ感じて、人に対して長く固く閉ざされていた卯吉の心が次第にやわらいで来る日を辛抱強く待っておられたのです。
ところが、病状が悪化してきていた卯吉は、ある日、喉に詰まった痰を吐きだす力を無くしつつあって、息苦しく今にも呼吸困難で死にそうになりました。
それを見た三上先生は、病室にも看護師詰所にも痰を吸入する道具がなかったため、暫く迷われた後でしたが、敢然と卯吉の口に自らの口をあてがって勢いよく息を吸い、卯吉の喉に詰まった痰を吸い出されたのでした。死病の結核が移るのも厭われなかったのです。
命拾いをしたことに気付いた卯吉の心は、漸く、堅い氷の結晶が解けたかのように三上先生の優しい言葉を素直に聞けるようになりました。
その三上先生の教えはこうでした。
「人間は、人の世に役に立つために生れてきているんだよ。だから、君を世話し看護してくれている看護師さんや医師に向けては、その言葉に対して自分が気に入らないからといって八つ当たりしたり嫌味を言ったり、あるいは指示に反抗したりとかするのでは決してなく、お世話になります、ありがとうございます…と心から喜び感謝し、素直に従うのですよ。
そして、看護師さんやお医者さんのお仕事が気持ち良くやすやすと運ぶようにお手伝いして、お役に立つんですよ。」
そこで、翌日の朝からは、卯吉の態度は変わり、看護師や医師への反抗の態度はなくなり、卯吉への世話も楽に進み始め、療養所職員の負担は軽減されました。
ところが、その夜には卯吉の様子が急変し、寿命が尽きかけたろうそくの火が、消える寸前にひと時強く燃え上がって遂には消えるかのように、卯吉の命は尽きました。
その卯吉が、誰一人に看取られることもなく、ひっそりと息を引き取ったことを翌朝に知った療養所の看護師や医師たちは、大層な驚きと共に彼の薄幸の人生への憐みの気持ち一杯で涙しました。
平成24年10月31日 水曜日
岡村寛三郎
≪読者への挑戦≫
★この物語の表題は、「人間の底」ですが、何故、こんな表題が付けられたのでしょうか?
「人間の底」とは何を意味するのでしょうか?
[卯吉の生活のひどさや運命のはかなさが、人類の底]という意味でしょうか?
⇒⇒⇒ 回答をお寄せください。
≪資料≫
(1)原作:三上和志著『人間の底』(一燈園出版部、1960年)
上記の私の作品は、「三上先生」の著書(物語)を思い出しながら書いたものであり、原典がそこにあることを明確に記して、ここに「三上先生」に心からの謝意を表すものです。 岡村寛三郎
(2)その時代背景
第一次大戦後 [編集]
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
金融恐慌 [編集]
第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、昭和金融恐慌となった。
若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。
あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下で三週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)への預金が集中した。
以上
学習への意欲・情熱を湧き立たせよう!
人間がこの世に生まれてきた理由、そして生きるということは、他の人のため、世間や社会の人たちに(幸せをもたらすために)尽くすということです。
尽くすというのは、奉仕するということですが、通常の意味での奉仕とは、「無料奉仕」を意味することが多いのですが、有料の奉仕であっても、(損得を考えない程に)精一杯、相手に大きな満足や喜びを与えるほどにまで真心をこめて行われた奉仕は、無料の奉仕に近く、純粋(=無料)の奉仕にどこまでも近づくことでしょう。
こうした真心のこもった奉仕をするためには、あるいはそんな奉仕ができるためには、
世間や社が本当に求めているもの、手にしたり与えられたりすれば、とても嬉しいようなものを提供する必要があります。
例えば、足が悪くて、ほんの近くのお店にまでも歩けない人にとっては、椅子に座ったままで、あるいは床に寝込んだままで、その行きたいお店にまで自分で運転して移動できる車があればどんなに助かるでしょうか? あるいは、欲しいものが家にまで配達される配達・運搬システムを手軽に利用できれば、どんなにか嬉しいでしょう。
しかし、そのような便利な小型の車や宅配システムにしても、大勢の人たちがそれぞれに分担し合って作った多くの部品や作業の連鎖があって始めて実現しています。
手軽さやスピード、あるいは丈夫さや価格などでの面での今後の改善も、製造業者や配達業者による絶えざる工夫と努力が求められます。
そういった改善・工夫には、実は、教養としての幅広い基礎知識と実業面で役立つ奥深い専門知識・応用知識との両方が必要なのです。数学や理科の知識を基礎として始めて、専門技術の習得が可能となるからです。
その数学や理科の知識も、書物を効率よく読んで理解し身に着けていくには、国語の他に、外国の文化をも吸収する有力な手段である英語などの語学学習も不可欠です。
もちろん、それらの勉強の過程では、人間として大人として自立し、実社会で生活していくのに必要な地理・歴史・文化や、心身のバランスが取れた健全な成長を図るためのスポーツ体育や家庭科・音楽・文学・芸術などにも興味を持つことが、そういった分野での交流を通じて多くの友人や知人を獲得し、生活に潤いや幸せを生み出すことにつながります。
以上のような意味で、学校や教室では、多くの先生や友人たちと一緒に、将来、人や世間に奉仕しつつ我が身も幸せな暮らしをするために必要な知識や技能を習得していく極めて貴重な場所なのです。
そういった貴重な機会となっているのが、君たちの目の前にある1時間1時間の教室での授業なのです。時間は二度とは戻ってきません。今日という日は、二度と戻ってきません。青春時代も二度と戻ってきません。
そこで、しっかりと目を明けて先生の方を向いてお話に耳を傾けましょう。
高校時代は、生存競争としての学力競争
学校での学力伸長が、生前競争としての一断面を持っていることを否定できません。
中学生までの間なら、社会への奉仕と同時に自己の生活基盤を築くための「労働や仕事」の意義や価値を考えて、基礎学習に専念すれば良いのですが、高校になれば、否応なく将来の職業を意識した全国レベルでの激烈なエリート大学入学に向けた学力競争が始まります。
もちろん、小・中学生の間から、既にそうした生存闘争の側面を直視して我が子の学力を鍛えておられる家庭もありますので、世間の実相は甘くはありません。
とはいえ、一般的には、高校3年間(及び浪人時代)での学力競争での勝ち負けが大学入試での成否を分けることが多いと考えられます。
なぜなら、学力養成期間が小学生から高校時代までの12年間ないしはそれ以上の長期に及ぶため、その学力競争は、しばしば約40キロメートルの長距離マラソン競争に例えられ、そのマラソン競争での胸突き八丁である30キロメートルを過ぎた辺りに当たるのが、高校1年生ないしは2年生という時期に当たり、この2年間の過ごし方が際立って重要だからです。
翻って、社会に尽くす奉仕の精神を現実化する労働や仕事での成果をもたらすための崇高なあるいは純粋なはずの学業と高度な知的水準の達成に向けての努力が、何故、人間社会の生々しい生存闘争の断面から逃れられないのかと言えば、この地球上での人類や民族・歴史・文化・国家などの多様性とそれぞれの量的な多さとが大きく原因しているからです。
すなわち、各文明・文化や民族・国家などが、長い歴史の中で(時に協力しつつも)生存闘争をし続け、未だにその闘争の終焉が予想されていないため、(競争)社会の構成員である小集団や個人のレベルにまでも生存闘争の側面が波及してきているのです。
そこで、その生存闘争の中で、少しでも有利な地位を築き、様々な意味での稼ぎを多く勝ち取りたい人間の欲望が、学力競争=エリート大学入学競争=エリート大学の卒業生の社会での活躍や築いた地盤の大きさ=高い社会的地位(生存闘争での勝利)確保の可能性の高さという鎖の輪(あるいは、「梯子の段」)を登っていくことを動機づけているのです。
こうして、学力形成と伸長は、義務教育時代の純粋かつ基礎的な知識獲得から、高校時代以降での将来の職業・職種、就業先などをも意識した生存闘争の側面を持った厳しい精神的・知的競争となっているのです。
そうした現実をしっかり見て対応していかなければ、その競争に負けない気力や意欲を湧き立たせ、引き出すことはできないかもしれません。人間生活の楽しみを増長するはずのスポーツや音楽・文学などの芸術ですら、職業として追及する場合には、さらに激しい実力主義・点数主義の世界が展開されています。
かくて、学問も芸術も、ほとんどの分野が質的な側面においてのみならず数量でも厳しく相対評価され、優劣が決せられることになります。
そこで、高校生になれば、良し悪しを問わず、将来の社会的地位・職業を目的化しての勉学に励む合理性と勇気を持って欲しいと思います。
平成24年11月6日 火曜日
一般社団法人日本教育者セミナー・理事長・岡村寛三郎
『人間の底』
昭和の初め、風雲急を告げる社会・経済・金融体制の崩壊と混乱の時代、瀬戸内海沿いのある漁村、海岸沿いの街道が山間の谷の方向に延びる街道と交差する三叉路近くにあったうどん屋の2階に住む店の客引き接待役の女性店員の子として中田卯吉は誕生しました。
しかし、間もなく母は、幼い中田卯吉を2階に置き去りにして、その頃店に出入りをしていた客の男性と行方をくらましてしまいました。
卯吉は、近所に住む母の兄弟の家に引き取られましたが、その家族とりわけ子供たちとの折り合いが悪くていじめられるため、その家を10歳のころに飛び出して一人放浪の生活を始めました。
しかし、大方は薄暗い神社の床下の土間の上に、近くの農家が捨てていた破れたむしろを拾ってきては、蜘蛛の巣や蚊を払いながら、それを畳代わりに敷いて寝泊まりしていました。昼間は、近所をうろうろしていましたが、時々板塀越しに小さな女の子の泣き声が聞こえるので,その板塀の節穴から覗けば、兄におもちゃを取り上げられて泣きじゃくっている女の子が目に入りました。
卯吉も一人で寂しかったので、その女の子に優しい声をかけて「一緒に遊ぼうよ。」と誘ってやりました。女の子は喜んで塀の外に出てきて、卯吉の神社の床下の筵の上に座って遊んでくれました。そして、時には、その女の子が家で蒸したサツマイモや焼いたおせんべいを持ってきてくれて、一緒に食べたりしたこともありました。
そういった小さな幸せを感じる時もありましたが、いつまでも同じ神社の床下や縁の下に筵を敷いて住み続けることは許されず、再び放浪の生活を続けることになりました。
やがて15歳の頃、長年続いた食べものや栄養不足のひもじさと夏の暑さや冬の寒さにこらえきれず、次第に体力が弱ってきて、遂にその時代に流行っていた死病の「結核」に取りつかれ病み始めました。ある時、道に行き倒れていましたが、通りがかりの人の親切で近くの病院に運ばれ、また結核療養所に送られて療養生活を送ることになりました。
丁度その頃、京都山科にある“社会奉仕を通じて自らを高めようとする宗教団体”である「一燈園」に所属する講師の三上先生が、その療養所に不治の病にかかって苦しみ続けている病人の心に「癒し」をもたらす奉仕活動の途中で立ち寄られましたが、そこで、療養所の看護師や医師などから、「心がひん曲がってしまっていて手におえない病人がいて困っている。」という嘆きの声を聴かれました。
それが中田卯吉でしたが、親もなく身寄りもなく社会から見放されたような生活と、飢えと暑さや寒さを耐え凌ぐだけの長年の放浪生活の中で、人の心の温かみに触れることがなく、療養所に収容された時は、既にその着物はボロボロで、体が弱ると同時に心はすっかりとひん曲がって、反抗的になってしまっていたのでした。
しかし、三上先生は卯吉の病室を度々訪れ、卯吉の幼い時から親からも捨てられて孤独で神社の床下に筵を敷いて一人寂しく暮らさざるを得なかった哀れな物語を繰り返し何度も聞かれては、三上先生の親切な言葉や態度に心の温かみを少しずつ感じて、人に対して長く固く閉ざされていた卯吉の心が次第にやわらいで来る日を辛抱強く待っておられたのです。
ところが、病状が悪化してきていた卯吉は、ある日、喉に詰まった痰を吐きだす力を無くしつつあって、息苦しく今にも呼吸困難で死にそうになりました。
それを見た三上先生は、病室にも看護師詰所にも痰を吸入する道具がなかったため、暫く迷われた後でしたが、敢然と卯吉の口に自らの口をあてがって勢いよく息を吸い、卯吉の喉に詰まった痰を吸い出されたのでした。死病の結核が移るのも厭われなかったのです。
命拾いをしたことに気付いた卯吉の心は、漸く、堅い氷の結晶が解けたかのように三上先生の優しい言葉を素直に聞けるようになりました。
その三上先生の教えはこうでした。
「人間は、人の世に役に立つために生れてきているんだよ。だから、君を世話し看護してくれている看護師さんや医師に向けては、その言葉に対して自分が気に入らないからといって八つ当たりしたり嫌味を言ったり、あるいは指示に反抗したりとかするのでは決してなく、お世話になります、ありがとうございます…と心から喜び感謝し、素直に従うのですよ。
そして、看護師さんやお医者さんのお仕事が気持ち良くやすやすと運ぶようにお手伝いして、お役に立つんですよ。」
そこで、翌日の朝からは、卯吉の態度は変わり、看護師や医師への反抗の態度はなくなり、卯吉への世話も楽に進み始め、療養所職員の負担は軽減されました。
ところが、その夜には卯吉の様子が急変し、寿命が尽きかけたろうそくの火が、消える寸前にひと時強く燃え上がって遂には消えるかのように、卯吉の命は尽きました。
その卯吉が、誰一人に看取られることもなく、ひっそりと息を引き取ったことを翌朝に知った療養所の看護師や医師たちは、大層な驚きと共に彼の薄幸の人生への憐みの気持ち一杯で涙しました。
平成24年10月31日 水曜日
岡村寛三郎
≪読者への挑戦≫
★この物語の表題は、「人間の底」ですが、何故、こんな表題が付けられたのでしょうか?
「人間の底」とは何を意味するのでしょうか?
[卯吉の生活のひどさや運命のはかなさが、人類の底]という意味でしょうか?
⇒⇒⇒ 回答をお寄せください。
≪資料≫
(1)原作:三上和志著『人間の底』(一燈園出版部、1960年)
上記の私の作品は、「三上先生」の著書(物語)を思い出しながら書いたものであり、原典がそこにあることを明確に記して、ここに「三上先生」に心からの謝意を表すものです。 岡村寛三郎
(2)その時代背景
第一次大戦後 [編集]
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
金融恐慌 [編集]
第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、昭和金融恐慌となった。
若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。
あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下で三週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)への預金が集中した。
以上
学習への意欲・情熱を湧き立たせよう!
人間がこの世に生まれてきた理由、そして生きるということは、他の人のため、世間や社会の人たちに(幸せをもたらすために)尽くすということです。
尽くすというのは、奉仕するということですが、通常の意味での奉仕とは、「無料奉仕」を意味することが多いのですが、有料の奉仕であっても、(損得を考えない程に)精一杯、相手に大きな満足や喜びを与えるほどにまで真心をこめて行われた奉仕は、無料の奉仕に近く、純粋(=無料)の奉仕にどこまでも近づくことでしょう。
こうした真心のこもった奉仕をするためには、あるいはそんな奉仕ができるためには、
世間や社が本当に求めているもの、手にしたり与えられたりすれば、とても嬉しいようなものを提供する必要があります。
例えば、足が悪くて、ほんの近くのお店にまでも歩けない人にとっては、椅子に座ったままで、あるいは床に寝込んだままで、その行きたいお店にまで自分で運転して移動できる車があればどんなに助かるでしょうか? あるいは、欲しいものが家にまで配達される配達・運搬システムを手軽に利用できれば、どんなにか嬉しいでしょう。
しかし、そのような便利な小型の車や宅配システムにしても、大勢の人たちがそれぞれに分担し合って作った多くの部品や作業の連鎖があって始めて実現しています。
手軽さやスピード、あるいは丈夫さや価格などでの面での今後の改善も、製造業者や配達業者による絶えざる工夫と努力が求められます。
そういった改善・工夫には、実は、教養としての幅広い基礎知識と実業面で役立つ奥深い専門知識・応用知識との両方が必要なのです。数学や理科の知識を基礎として始めて、専門技術の習得が可能となるからです。
その数学や理科の知識も、書物を効率よく読んで理解し身に着けていくには、国語の他に、外国の文化をも吸収する有力な手段である英語などの語学学習も不可欠です。
もちろん、それらの勉強の過程では、人間として大人として自立し、実社会で生活していくのに必要な地理・歴史・文化や、心身のバランスが取れた健全な成長を図るためのスポーツ体育や家庭科・音楽・文学・芸術などにも興味を持つことが、そういった分野での交流を通じて多くの友人や知人を獲得し、生活に潤いや幸せを生み出すことにつながります。
以上のような意味で、学校や教室では、多くの先生や友人たちと一緒に、将来、人や世間に奉仕しつつ我が身も幸せな暮らしをするために必要な知識や技能を習得していく極めて貴重な場所なのです。
そういった貴重な機会となっているのが、君たちの目の前にある1時間1時間の教室での授業なのです。時間は二度とは戻ってきません。今日という日は、二度と戻ってきません。青春時代も二度と戻ってきません。
そこで、しっかりと目を明けて先生の方を向いてお話に耳を傾けましょう。
高校時代は、生存競争としての学力競争
学校での学力伸長が、生前競争としての一断面を持っていることを否定できません。
中学生までの間なら、社会への奉仕と同時に自己の生活基盤を築くための「労働や仕事」の意義や価値を考えて、基礎学習に専念すれば良いのですが、高校になれば、否応なく将来の職業を意識した全国レベルでの激烈なエリート大学入学に向けた学力競争が始まります。
もちろん、小・中学生の間から、既にそうした生存闘争の側面を直視して我が子の学力を鍛えておられる家庭もありますので、世間の実相は甘くはありません。
とはいえ、一般的には、高校3年間(及び浪人時代)での学力競争での勝ち負けが大学入試での成否を分けることが多いと考えられます。
なぜなら、学力養成期間が小学生から高校時代までの12年間ないしはそれ以上の長期に及ぶため、その学力競争は、しばしば約40キロメートルの長距離マラソン競争に例えられ、そのマラソン競争での胸突き八丁である30キロメートルを過ぎた辺りに当たるのが、高校1年生ないしは2年生という時期に当たり、この2年間の過ごし方が際立って重要だからです。
翻って、社会に尽くす奉仕の精神を現実化する労働や仕事での成果をもたらすための崇高なあるいは純粋なはずの学業と高度な知的水準の達成に向けての努力が、何故、人間社会の生々しい生存闘争の断面から逃れられないのかと言えば、この地球上での人類や民族・歴史・文化・国家などの多様性とそれぞれの量的な多さとが大きく原因しているからです。
すなわち、各文明・文化や民族・国家などが、長い歴史の中で(時に協力しつつも)生存闘争をし続け、未だにその闘争の終焉が予想されていないため、(競争)社会の構成員である小集団や個人のレベルにまでも生存闘争の側面が波及してきているのです。
そこで、その生存闘争の中で、少しでも有利な地位を築き、様々な意味での稼ぎを多く勝ち取りたい人間の欲望が、学力競争=エリート大学入学競争=エリート大学の卒業生の社会での活躍や築いた地盤の大きさ=高い社会的地位(生存闘争での勝利)確保の可能性の高さという鎖の輪(あるいは、「梯子の段」)を登っていくことを動機づけているのです。
こうして、学力形成と伸長は、義務教育時代の純粋かつ基礎的な知識獲得から、高校時代以降での将来の職業・職種、就業先などをも意識した生存闘争の側面を持った厳しい精神的・知的競争となっているのです。
そうした現実をしっかり見て対応していかなければ、その競争に負けない気力や意欲を湧き立たせ、引き出すことはできないかもしれません。人間生活の楽しみを増長するはずのスポーツや音楽・文学などの芸術ですら、職業として追及する場合には、さらに激しい実力主義・点数主義の世界が展開されています。
かくて、学問も芸術も、ほとんどの分野が質的な側面においてのみならず数量でも厳しく相対評価され、優劣が決せられることになります。
そこで、高校生になれば、良し悪しを問わず、将来の社会的地位・職業を目的化しての勉学に励む合理性と勇気を持って欲しいと思います。
平成24年11月6日 火曜日
一般社団法人日本教育者セミナー・理事長・岡村寛三郎