イエス様が私たちに務めを与えられた目的は、私たちが個人的に幸福になるためだけではありません。『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ人への手紙4章13節)いえむしろそれは、聖徒が奉仕の働きをして、キリストのからだである教会を、一致をもって建て上げるためである、と聖書は語ります。教会とは建物や制度のことではありません。そこに集うおひとりおひとり、つまりあなたが教会である、ということです。その教会は真理の柱、また土台です。信仰はイエス・キリストを知る知識からはじまります。イエス・キリストに関する知識の一致がなければ、教会は互いに、愛をもって助け合うことできません。そして「知識」の一致がなければ、やがて教会に、分裂を生じさせることにもなります。主はこの事を悲しまれます。主の悲しまれる道を選ばない為には、更に主に喜ばれる信仰生活をおくるには「信仰の知識の一致」が重要である、ということなのです。教会に集い続けることの意味はここにあります。救いは無条件にイエス・キリストを信じた時に与えられます。それは決して変わることのない完全な救いです。しかし聖書はそこだけに、そのことだけに留まり続けることを、良しとはされていません。「信仰」によって「成長」しなさい、と語られている箇所は、聖書の中に数えきれないほどにあります。それは私たちが「未熟な子ども」から「完全なおとな」に成長することを、主が期待されているからです。親は子の成長を楽しみにしています。なぜなら子どもの成長は、親にとっての最大の喜びだからです。神も同じように、私たちの「神の子としての成長を」この上なく喜ばれるのです。そして主は更に“成長”から「成熟」を目指すことを望まれます。それはあなたが「キリストの満ち満ちた身たけにまで」達するためです。親は柱に子どもの背丈を書き記して、その子の成長を喜びます。しかしやがて成長期は終わりを迎え、背はそれ以上、伸びなくなります。しかしそこで人が完成されたのではありません。人はそこから次の段階「成熟」へと向かいます。人の成熟には終わりはありません。それは年をいくつ重ねても、いくつになっても「キリストの満ち満ちた身たけにまで」達するために、信仰と人格において成熟する、ということです。
さて、振り返って今年一年は、みなさんにとって、どのような年だったでしょうか・・・。
もちろんこのコロナウイルスによって、大変な一年であったことは言うまでもありません。しかし、災いや病を通して、主はいったい何を私に語りかけておられるのか、そのことを祈り、考えることができるのは、「おとなの信仰」を持つ者の、特権である、と言えるのではないでしょうか。なぜなら、信仰の「知識」を得、信仰者として「成長」し、そして信仰の「成熟」を目指す者に、主はご自身の喜びを、そして祝福をその人に、あふれるばかりに与えてくださる方なのですから。
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