オオタカは、 色調自体も 明るめで、 かつ、光との角度が相当悪くても 光が入ってくれ易い印象が強いので、
他の鳥なら全く使い物にならないような 条件が悪い時でも そこそこには写せてしまうことも多い、ということでも、
写真の基礎知識が乏しい向きでも それっぽく写せた画を得られることには 都合が良い鳥、だが・・・
太陽にも 背景の空にも 薄雲がかかって、共に良くない状況でのコマ。
こういう光でも、 背景が 遠く離れた林に重なった状況で 良いシーンになってくれれば使えるだろうが・・・、 上空に上がった状況では、 光と背景 それぞれの良くない加減は それほど極端ではなくても、 両方が良くないのが揃うと、 いくら 条件にルーズでも そこそこには写せてしまうオオタカでも、 無理に写したところで 「ダメな時に写しても、 ダメなものはダメ」にしかならない。
もちろん、 写真の良い悪いは それぞれの主観によって千差万別で 一概に決まったものではない・・・ とはいっても、 最低限の体裁も成さないのでは 問題外と断じても 実質的に間違いないものはある。
まぁ、 こういう条件でも、 新種だったら 写しておきたい価値もあるのだろうが、 オオタカは “鳥の写真を撮っている人”なら もし 光と 背景の空が 最大限に良かったとしても ただ飛んでいるのが写っているだけで喜ぶような ありがたがる種類ではない。
しかし・・・
各地で無数にあって オオタカ目当てでも多くある“鳥の写真を撮っている人ごっこ”の集いが、 (実際は ほぼ通年行なわれ続けているが、) この時期であり、また、これからの時期であり、には 特に目立ちがち。
そして、 そういう集いの面々では、 この画とも比べようもない 更に遥かに酷い、被写体には全く日差しがなく 背景は 全面 明るい雲の 豆粒ケツ写真といった、 “鳥の写真を撮る人”なら それを写そうとすること自体がマヌケすぎるから あっさり さっぱり ばっさり スルーしている状況を大連写しては、 あべこべに
「他の人には 見つけることすらもできない鳥の撮影にまでも 『成功』している」
「他の人は カメラを構えることすら諦めてしまっているほどもの 難しい写真の撮影にまでも 『成功』している」
などと お幸せな幻想で狂喜乱舞して 称え合い、 それが 集いの内輪だけでなら ともかく、 通り掛かる人や周囲にまで 得意満面に 盛大な文言で飾り付けたご自慢と 馬鹿げたご指導の押し売りに 精が出てしまわれるのが 常。
こういうのは、 “鳥の写真を撮る人”からすれば、 “その世界”の中での レベルが高い低いとかいうことではない部分・・・、 既存の言葉で表せる 他でのもので喩えるなら “サーファー”と『陸(おか)サーファー』のような、 本質的に 何も関連性がない 根本から全く別の世界。
これは、 “その世界”の人にとっては、 『陸(おか)』の面々は 初見の相手が 何をしているでもなく ただ道を歩いている姿を見ただけでも 瞬時に区別できるのが当たり前でも、 その世界に興味・関心がない一般の人には 混同されがち。
・・・というよりも、 『陸(おか)』の面々の多くが “その世界”の人を演じれているつもりの言動をひけらかして回ること自体を 目的としていることから、 むしろ 『陸(おか)』の方が “その世界”の実際だと思われた 可笑しな迷信を浸透されてしまうことでも、 “その世界”の人には 迷惑な存在であり、 また、その言動のお恥ずかしさは 嘲笑や侮蔑の対象になるものだろう。
こういうのは、 とても とても 基本的すぎることで、 その世界に興味・関心があれば、 とても とても 簡単すぎること。
しかし、 どういう分野ででも、 その世界に興味・関心がないことで 簡単すぎることもわからない、 あるいは、簡単すぎることもわからないこと自体がわからずに わかっているつもりでいる向きには、 簡単すぎることこそ、 あらゆる どんな文言で説明したとしても、 丁寧に詳細な説明をしたところで 乏しい関心相応の容量に入りきるはずもなく いくつかの単語の断片を でたらめに繋ぎ合わせた 支離滅裂な『理解』をしてしまい、 かといって、要約した説明でも それはそれで 乏しい関心相応の薄い思考で いくつかの単語の断片を でたらめに繋ぎ合わせた 支離滅裂な『理解』をしてしまい、で、 説明した文面で表されている内容通りに正しく伝わることは まず望めないもの。
なので、 今回は あえて、 “鳥の写真を撮る人”なら 「こういうのを写したところで、 使えるようなものではない」し、 まして、もっと酷いのでは「・・・」、 という意味で、 (文章とは違って) 視覚的に“見える”画を 載せておいてみました x x x
太陽にも 背景の空にも 薄雲がかかって、共に良くない状況でのコマ。
こういう光でも、 背景が 遠く離れた林に重なった状況で 良いシーンになってくれれば使えるだろうが・・・、 上空に上がった状況では、 光と背景 それぞれの良くない加減は それほど極端ではなくても、 両方が良くないのが揃うと、 いくら 条件にルーズでも そこそこには写せてしまうオオタカでも、 無理に写したところで 「ダメな時に写しても、 ダメなものはダメ」にしかならない。
もちろん、 写真の良い悪いは それぞれの主観によって千差万別で 一概に決まったものではない・・・ とはいっても、 最低限の体裁も成さないのでは 問題外と断じても 実質的に間違いないものはある。
まぁ、 こういう条件でも、 新種だったら 写しておきたい価値もあるのだろうが、 オオタカは “鳥の写真を撮っている人”なら もし 光と 背景の空が 最大限に良かったとしても ただ飛んでいるのが写っているだけで喜ぶような ありがたがる種類ではない。
しかし・・・
各地で無数にあって オオタカ目当てでも多くある“鳥の写真を撮っている人ごっこ”の集いが、 (実際は ほぼ通年行なわれ続けているが、) この時期であり、また、これからの時期であり、には 特に目立ちがち。
そして、 そういう集いの面々では、 この画とも比べようもない 更に遥かに酷い、被写体には全く日差しがなく 背景は 全面 明るい雲の 豆粒ケツ写真といった、 “鳥の写真を撮る人”なら それを写そうとすること自体がマヌケすぎるから あっさり さっぱり ばっさり スルーしている状況を大連写しては、 あべこべに
「他の人には 見つけることすらもできない鳥の撮影にまでも 『成功』している」
「他の人は カメラを構えることすら諦めてしまっているほどもの 難しい写真の撮影にまでも 『成功』している」
などと お幸せな幻想で狂喜乱舞して 称え合い、 それが 集いの内輪だけでなら ともかく、 通り掛かる人や周囲にまで 得意満面に 盛大な文言で飾り付けたご自慢と 馬鹿げたご指導の押し売りに 精が出てしまわれるのが 常。
こういうのは、 “鳥の写真を撮る人”からすれば、 “その世界”の中での レベルが高い低いとかいうことではない部分・・・、 既存の言葉で表せる 他でのもので喩えるなら “サーファー”と『陸(おか)サーファー』のような、 本質的に 何も関連性がない 根本から全く別の世界。
これは、 “その世界”の人にとっては、 『陸(おか)』の面々は 初見の相手が 何をしているでもなく ただ道を歩いている姿を見ただけでも 瞬時に区別できるのが当たり前でも、 その世界に興味・関心がない一般の人には 混同されがち。
・・・というよりも、 『陸(おか)』の面々の多くが “その世界”の人を演じれているつもりの言動をひけらかして回ること自体を 目的としていることから、 むしろ 『陸(おか)』の方が “その世界”の実際だと思われた 可笑しな迷信を浸透されてしまうことでも、 “その世界”の人には 迷惑な存在であり、 また、その言動のお恥ずかしさは 嘲笑や侮蔑の対象になるものだろう。
こういうのは、 とても とても 基本的すぎることで、 その世界に興味・関心があれば、 とても とても 簡単すぎること。
しかし、 どういう分野ででも、 その世界に興味・関心がないことで 簡単すぎることもわからない、 あるいは、簡単すぎることもわからないこと自体がわからずに わかっているつもりでいる向きには、 簡単すぎることこそ、 あらゆる どんな文言で説明したとしても、 丁寧に詳細な説明をしたところで 乏しい関心相応の容量に入りきるはずもなく いくつかの単語の断片を でたらめに繋ぎ合わせた 支離滅裂な『理解』をしてしまい、 かといって、要約した説明でも それはそれで 乏しい関心相応の薄い思考で いくつかの単語の断片を でたらめに繋ぎ合わせた 支離滅裂な『理解』をしてしまい、で、 説明した文面で表されている内容通りに正しく伝わることは まず望めないもの。
なので、 今回は あえて、 “鳥の写真を撮る人”なら 「こういうのを写したところで、 使えるようなものではない」し、 まして、もっと酷いのでは「・・・」、 という意味で、 (文章とは違って) 視覚的に“見える”画を 載せておいてみました x x x
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