遠藤周作の原作、マーティンスコセッシ監督の映画「沈黙-サイレンス-」を観賞
マーティン・スコセッシ監督が原作の出会いから28年、制作から15年の歳月をかけた力作。僕自身、決して読書好きではないので、原作の名と大まかなあらすじは、記憶としてあるものの読んではいないので、小説を語ることは出来ませんが、日本人の宗教観と殉教にと棄教について深く考えさせられる作品でした。
舞台はキリスト教が禁教となった江戸時代の長崎。日本での布教の後に行方不明となり、棄教したとの噂を聞いた師の神父の真相を確かめるために日本へ向かった二人の弟子の神父。そこで遭遇するキリシタン信者の想像を絶する弾圧の中で、棄教を迫られる追い詰められた神父の決断を描いています。
隠れキリシタンを演じた、窪塚洋介、塚本晋也、笈田ヨシ、加瀬亮、小松菜奈など異なる信仰心の姿を英語を駆使しながら熱演、奉行側のイッセー尾形に浅野忠信など、異教徒への容赦ない弾圧に胸がかきむしられる思いを持ちました。
踏絵を通して試される信仰心は、個人の持つ異なる宗教観の違いとして赦される行為と意義付けられているように感じましたが、それも神の沈黙により個々の決断にゆだねられた象徴的な言葉に感じます。
江戸時代から続く檀家制度による統制は、宗教が本来持つ布教の根を断ち形骸化していった日本で、キリスト教は権力を脅かす存在だったはず。そして多様な価値観を許容できなかった権力者の行為が、どこか今のトランプに見えてきました。日本人の寛容さは、果たして多様性を認めるものなのか疑問を感じますが、この作品を通じて、改めて日本人としての宗教観を考えさせられる作品でした。