あげちうのブロマガ

理不尽な壺の中にある何か

”それ”を考えても、答えが出ない状況の様な気はする。

それでも、「理不尽だ」それは、破綻への亀裂というべきだろうか。

推測で問題になっているのは、カルトの二世、ではある。主観でしかない「私は神だ」と言う狂気に飲み込まれたまま、「神なのに死ぬの?」という矛盾と疑問を否定される環境の先で、それが残した目的と問題の責任を全て背負わされつつ、神の意図を理解できないまま、残された神の言葉を語るだけの、単なる壊れたスピーカーとなっていく、という構図。前回の推測?が事実なら、特に旧統一教会の合同結婚式なんかは「昭和天皇への嫌がらせ」でしかないのに。”そこ”に後継者は「意味」を語らねばならなくなってか、その先へ倫理上の破綻を起こしていく訳だが。

もちろん、その前から既に破綻はしてるのだけど。

教祖ならまだいい、「神を倒さねば!」的な目的は何とかある。でもその先の人にとっては、逆説的に「後継者として甘やかされた」だろう事は、”社会”への否定感、それを喪失してる部分もある訳だ。教祖とは異なり、かなりいい暮らしをしてきた。今も教団が自分を教祖の後継として大事にしてくれる時、「世界は間違っている」それは考えられないのでは、体感的に。そうなった後に、今、教祖のそれが批判として自身へ集中する。

世界を恨んでる訳じゃない、何か過失があった訳じゃないのに今、世界は自身を突然か、「責任を取れ」そう責め立てている訳だ。理不尽だ。

この雰囲気はなんでか、ウクライナのゼレンスキー大統領からも、なんとなく感じる部分ではある。今の彼は、或いはもともと何かの傀儡かなんかでしかないのかもしれない、その王が或いは居なくなったかして、今の、「自身がした事の責任として、現状を自覚できない」様な感じになっている、のかも。そしてそこに残るのはただ「理不尽だ」それだけか。自分には過失がないのに、戦死者その他もろもろ、全ての責任を問われている。

まあちょっと、自分も、娯楽的に勝手な推測をしてる、感じもしない事もない。「そんなに馬鹿か?」というのはちょっと思うが世の中、想像し得ない事を本気で考えてる人、それは居る訳で。「戦争は大戦ゲームで決着にしよう」或いはそれさえ、そういう物の一つかもしれない。ともかくそうならない為には、多少は常に、自分を疑問視している方が良い訳だが。

ともかくというか、そんな奈落に陥ったカルト二世らの前に、果たして「大賀さん」があって、その中で彼ら自身で答えを見つけねばならない、そういう状況か或いは、ではある。視点では、答えは理不尽でしかないが。それに対しての物理的な返答それは、彼らの歪みに対して何かの意味はあるのか或いは。

「大賀さんの決定に従え」という、その時点で今、自分には結果が出るまで発言権というか、確定し難い部分はある。不満が奈落の中で蠢いてる…そういうのは感じる。結果は出るまで、まだかなり掛かりそうだ、歪みは自分の視野範囲を超えて広く、そして重い。

理不尽という名の壺の中には今、何があるのだろう?

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