あげちうのブロマガ

英雄とは犠牲を背負って歩く人

漫画家の「寺沢武一」氏が、9月8日に心筋梗塞で亡くなられた、らしい。

まだ68歳だったというが、悪質の脳腫瘍を抱えつつ、ともかく”それ”では死ななかった、のに。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
ちょっとなんでか自分には感じるが不穏さが、なんか

 

今でも、やっぱり”この辺の年齢”には何かの壁が有るのだろうか。一般的には、定年退職後の数年、ではある。仕事を辞めた人間が、今まで大嫌いと公言していたモノを失って、不意に今までの趣味だけでは足りない、事に気づく、というか?そんな年齢だ。昔の様な事はもう出来ない、そう解っていく頃、そこに分岐が出てしまうのかもしれない。

しかし、90代に成っても元気に歩き、絵を描いたりしてる人は居るのだ。常々、是非と言うかは思う。

漫画家でなくても、今は「作品」それが残ってしまう時代、ではある。過去の発言は自身が大きくなるにつれて、意外な程に重要なセリフやシーンに成っていく、というのは時々ある。「漫画だから」が、次第にそう言えなくなる、時。過去のちょっとした皮肉や悪ふざけが、奇妙な問題として、自身の前に魔物を呼ぶ事はまあ、多々ある。

「コブラ」ぶっちゃけ、男尊女卑的なイメージの強い作品、ではある。結局コブラは、多くの女性を生贄にするように失いつつ、自身の障害を排除していく、訳で。それを「かっこいい」と、見ていた時代は或いは、今も燻っていて。そして今もなお、そう言う時代に出来た事が今は非常に、異様に、難しい、という事に。何かの執着を残している、のもまた、現実ではある。

「平等」と言う宇宙の定理は今も、「無理が通れば道理が引っ込む」に対して、結局それを許さないのだ。コブラが理不尽でさえある強力なパワーを発揮する時、そこに実際には犠牲が発生している、それを回避する事は出来ない。「漫画だから」その断言を失う時、過去の作品に投影したモノは、自身へ無理を要求し始める、そう言うのは、ある。

・・・それでも、”それ”を止めようと、終わらせようとした?そう言うのは有ったろうか。

時事ネタというかにつなげていくのも、すこし考えはする。「アーマードコア6」にて、「コーラルの火」とは何だったか?不意に、彼に通じる話だったろうか・・・そんな事も思う。最終的には「人の命」何故か、ルビコンという惑星には”それ”がエネルギーとして蓄積していた、訳で。”それ”を無限のエネルギーとして利用しよう、そう言う欲求と、その先の問題ではある。自身の理解、だ。倫理上の「限度」は、その世界をも滅ぼしかねない厄災を呼ぶ訳だ。主人公の雇い主は、それに気づいたか何かで、ともかく過去に、その厄災を呼んだ、それに加担していた。そしてその時、残ったモノを完全にか、消そうとしていた。「生き残った」コーラルの火、ルビコニアンは、そしてまた、生き残ろうとした。どっちにしろ世代かの選択、「コブラ」を生かす為に「自身らを生贄にする」事を許容する意識と、英雄たらんとする衝動?と。その世界は彼らを、”終わり”まで受け入れていた。

要するに、「内田裕也と樹木希林」ああいう話の残り火、だろうか。夫の自由を、妻は如何なる犠牲を持っても護らねば、みたいな奴。ルビコニアンは樹木希林、”それ”を利用する世界が内田裕也、だ。「面白い」それは、世代か状況か、理解かで、大分変わってくる訳だが。

ともかくその時、”それ”を期待して存続する世界は、終わってしまう。

世界は果たして、何処まで「コーラルの火」に執着し続けるのか。

そう言う視点も、ある。

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