「ストリードによる連携」は、理想に対して高い適応性を見せるし、それによって生成される創作は、期待されるクオリティが有る場合、純粋に「利益」それを発生させる。
そこで発生する利益があってこそ、独裁創作?個人創作それは、何かの褒章を与えられる事にも。
「つまり、世界は”あげちう”に支配された方が良いという事だ」と、帰結はそう言う意味にもなる。現状の理想?その帰結として有る環境は、或いは昔有ったような「渋沢栄一氏の業績」みたいな絵でさえある、”一人”が全ての根幹に居る、世界。「利益性は此処にしかない」と言う現実は、どうしても最後、それを形成し始める、訳だがその是非、ではある。
創作は基本的には、「ストリード」という共通する企画書、それを必要とする。”それ”はでも、企画者自らが創る事は基本的には出来ない。それを外部から手に入れた組織がそれを足場に作品を創る事で、それは「利益性」それに対して足場を持つ事には成る、「仕事として創っている」と言う状態の形成。結果で発生した利益から、企画者に「売値の」5%を支払う事で、双方は必要とする富を得る事になる。企画と現場が双方、発展する時、それは全体の発展に繋がっていく。
この状態で形成される利益から、税収的に集める事になる?お金は、「キングスブランド」として設定した組織に集中し、”そこ”で「アートスケール」と言う物差しを用いて査定、独裁創作、個人創作にも「ある程度の」褒章を設定する事で、問題になる「まだ非力な存在が、制作の経緯で必要な糧を得れない」そこを穴埋めしつつ、選抜する、という事には成る。ヒットラーの憤慨?「何故これを買わない?!」に、一応の理由と打開を提示する事は出来る様には成る。
キングスブランドはまた、「従来の方法論」にも合致させる為にもある。”そこ”で「牢陽帝」と設定した「王の権威」として認識されたモノの「意向」を足場にする事で、ストリードを介在させずとも利益性を足場にし得る、環境もまた形成する。その人物は、ともかく一文字10円の褒章を無条件で得られるので。その人物自身が制作には関われないしその利益を得られない、としても?自覚と共に生活は出来るしまた、「独裁創作の作者は何も貰えない?」と言う、経緯の不満を多少は沈静化し得る。
普通の人々?は、「キングスブランド」から掲示されるネタか、或いは外部から「ストリード」を手に入れてそれを創る事で、創作の利益性、そこに確実性を得られる。既に形成された環境もまた、緩やかに変化する際の緩衝領域的に、「キングスブランド」を利用する事は、出来る。ただ、どうしてもその時、”雅”市場は足場の倫理として存在する事には成る。その時、そこに居るのは「1/100程度の影響力しか持たない一般人の群れ」でしかない。ウルトラマンも仮面ライダーも、或いは怪獣も居ないのだ、それは自覚する必要はある。
「利益は出てる」らしい。だから、社会は経済的回復の為には”全て”がこの統制下に入る、必要がある。「創ったのは?」あげちうである。つまり、世界はあげちうの作った構造に支配されて始めて安定する、事に。
個人的に、”これ”を通さないと生活が成り立たないような気も、する。
成果も出ている理想ではある、としても。反応もまた、妥当な気はする。
ウクライナの敵は、或いは”ここ”かもしれない。