「理想」に対して、ある種の同意は不意に思う。
そこには仮面ライダーもウルトラマンも居ないのだ、もちろん成れない。
今の「理想」とする”現実”は、「誰も特別は居ない」平等公平、基本的人権は全ての人々に共通して適用される、事には成っており。結果、誰もが1%以上の影響力を基本的には持てない。「商店街が総じて流行ってる光景」を具現化するという事は、「どの店も大差ない」と言う意味でもあり。つまり、「この町で一番立派な!」そう言うのは、実際には期待されてない事には、成る。ヒーロー、或いは王、そう言うのは、居ないのが理想、な訳だ。そして、”それ”を肯定する必要がある、しかし。
それはつまり、「誰もリンクには成れない」と言う事ではあって…だから。”そういう感情”をゲームとか映画、漫画、そう言う部分で満足?させる、そこに創作の原始的な需要はある。ゲームの場合は…その辺で少し異相はある、(キャラの)能力的には大差ないのに、出来る奴は出来るが出来ない奴は出来ない。上手い下手が有る領域では、需要の意味は、少し変わっていると…そう言うべきだろうか。
ゲームは、「上手くいかない」事に理由を設定する必要は、或いは少しあるのかもしれない。
良くも悪くも、”その辺”の需要、それを満たす上で「ゲーム実況」と言う動画ジャンルは一つの確立を為した、訳だが。「ゲームは買ったけどプレイしてない、でも実況者のそれは大好き」とか、そう言う。最近は、単純に「物語としての需要」の方が重視されつつある、のかもしれない?物語が面白いなら、映画館に行く様に、プレイしないゲームを買ったりする。今の理解では、「同意」の部分に”それ”が組み込まれている、そう言うのは、重く有りそう。
「価値の形成」それは、非常に様々な要素を含んでいる、事には成っている。
そう言う需要を自身の行為の理由として背にしているか否か、それは、まあ感覚論にはなる。ともかく「仕事」と言う形式をとる時、それはオーダーを出した側にも「理由」は、あるので。当然の様に自分で創案して自分で始めた、よりもユーザーの受けはいいだろう、まずオーダーした人と言う来客は、間違いなく居る。
ともかく最終的には、「普通」その肯定に帰結する、のがまあ、基本的な要求、理由?だろうか。
「これが現実じゃなくて良かった」それが、娯楽作品の多くに共通する「需要」ではある。その時、そのプレイが「頑張れば誰でもクリア出来る」的な、”それ”では需要を満たせない、というのは、実はあるのかも。
そしてその先に進む人々もまた、「費用対効果が悪い」と言う現実を前に、否定感を持つ、のは大事かも。
「クリアした?良かったね」それ以上の報酬、それはそこに必要無いのだ。