”今”自身の前に有る結果を、「大賀さんの決定によるモノ」として良いのか?それは問われる話。
その結果に対して逆らう「反逆者」それが全ての元凶!という、そこに現れる結果ではある訳だが。
要するに?「広告代理店」それが、「半グレ集団の元締め」そう言う理解で居る、その是非ではある。社会的なシステムの不備、と言って良い発生する「切り捨て」を、必然的に抱え込む組織が求められ発生して、それは時代の変化と共に形態を変えて、”ヤクザ”とは別のルートで、その一つは今の「広告代理店」になった、そう言う理解。ともかく文化が「発達」すると同時に人も増え、そして逆に「仕事も減っていく」と言う、現状での致命的な欠陥は、彼らの存在に深刻な「必要性」を持たせてしまっている、それは重くある様な。
自分の信仰は、「大衆は神である」故に!カウンタ数値による利益の供与は自然とその「神」による調整、それを現世に表す筈だ、それに従えば問題は出ないし、それを歪める所に問題は発生する!と言い出す訳だが。「では何故、”それ”は半グレ集団を救おうとはしないのか?」それは重い反論としては、ある。
独裁創作は売れない。”仕事”をしないと人々は納得しない。その仕事も、社会的に「問題ない」とされるモノで無ければ成らない。そういう審査を通した問題ないオーダー、それから行わない限り、何をしても利益には届かないが。逆に言えばその「問題ないオーダー」がある限りは、後はクオリティの問題であり、それは研究その他で現場が埋める事が出来る。
という事でまず、「ストリード」”雅”市場に繋がった「仕様書」、一度”神”にその「企画」を晒す事でフィルタして貰い、それを現場に供給する事で上記の状況が実現する、という「体制」を提案はし、構築もした、訳だが。問われるべきはその具現性である、ともかく今のところ、これが「失敗した」と言う感じは、無い。
ただ、スキルは問われる。
というそれが、今も、「広告代理店」それには疑念か否定、それその物でしかない?も、少し考えはする。
要するに「組織されたサクラ」と言うその「仕事」の是非、ではある。彼らは今、宮崎駿監督がその名前だけで出来る”集客”を、或いは1000人かを投入して行う事は、出来る、「どんな内容だろうと」だ。そして逆に、そういう「名前だけで客が呼べる」と言うクオリティ”それ”に対して「甚大な侵略行為だ!」と、反応しない事もない、訳だ。結果として今の現状、「カウンタ制御で、有る特定な連中しか高いスコアを出せない」と言う状況がある、それは、ちょっと想像する、訳だが。
ぶっちゃけ、ゲームのテストプレイ、AIの「評価」値の入力作業、ネットでの書き込み等による賑やかし、「そう言う事しか要求できない」それはまず仕事と言えるのか、そしてそれは無能?故か、それともではあって。
体感的にも、この先に進む事はつまり彼らに「無能は消えろ」それを言うに等しい、状況はある?
もちろんそれが不当に感じるからこそ、彼らはむしろ存在感を見せる、事には成る訳だが。
現状を急激に変えられない、としたら。”ある程度”の混沌?「不快」そう言うのは、目を瞑るべき…その辺は時々思う、しかし。
”その”結果で自身の現状がある時、ちょっと疑問は淀む。