世界は、一つの物語で成り立ってしまう。
そんな現実も、実際には有るのかもしれない。
渋沢栄一の、自伝を元にした大河ドラマ、「青天を衝け」、近年まれに見る、大河ドラマらしいと言うべきか、そんな作品ではある。「そんな事本当に有ったんですか?」と、今までなら調べる?と「演出です」という部分がほぼ無い、と言うのも何というか、リアリティだろうか、それとも、事実は小説より奇なり、そう言う物か。時代の目撃者、それが残す物、その重さと言うか。何というか、それはシンプルに「面白い」と言う、そう言う意味だが。
ひとがしんでんねんで。
そんな矛盾も不意にか、感じたりもする。
この例も含み、「事実は面白い」と言うのは、ちょっと最近か感じる部分ではある。そしてその功罪と言うのも、ちょっと考える部分だったりもする。”それ”を求めて良いモノだろうか?事実である、と言うその重さと意味と、そして「面白い」のでそれを求める感覚、その帰結は何処へ行くのか。それは結論で言えばもう、「物語で良い」のだ、とは言え。
理解ではもちろん、分岐はある、二度と、或いは。だから。
しかしそれはそれとして、彼らの様な人々が居た、そこに正義と言うか、意味と言うか、それを考えてしまう、それもまた、何かのリアリティとしては有って。
憧れる、と言うか…そんな感覚の是非、ではある。
ゲームを遊んだりする、基本的な感覚ではある。物語の、主人公に成る。もちろん?それが面白ければ面白いほど、良い。人々は、か、”それ”を求めている訳だ、そして「それが事実である」事さえも。その時、それは何を世界に齎すのか。
近年まで、渋沢栄一のこの激動の半生が、メディアで殆ど語られて来なかった、それも、何かの理由は有ったろうか。渋沢栄一を目指す、それは良いしかし、その下時には、知人友人、身内の死、或いは数多の悲痛、そう言うのを背に”それ”はある。それらを背負わずして、彼の様には恐らくは成れない…その時。
結局、平成と言う時代は、何だったか?の様な、そんな感覚だろうか。
”面白い”漫画を求めた先にその歴史は、何かの必然として”求められて”しまった。
昭和期に「楽しんだ」人々は、或いは対価の様に、”その中に”放り込まれてしまった、のだ?
そこで残した物を振り返りつつ、自分が見ていた物は何だったか、少し考える事に。
個人的な体感だとしても、そこに有るのは事実だ、平成と言う時代の中に有った、或いは求めた様な。
「作り話を求めるべき」なのだ。
ある意味で、”それ”が「完璧には面白くない」としても、だ。
…それは、無意味な感覚かもしれない。
そこに有る物を、そしてそれを描いた事を、そして、それが「面白い」と言う評価を受けた事を、或いはそれが、何かの理想に成ってしまう、そんな事態を、不意に憂う、それは。
歴史は何故、繰り返すのか?
一つの物語の中に、人々はもしかして、生きているのだろうか。
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