実際問題か、「ゼビウスの物語は後付けだった」と言う開発者の話があった、”当時”は無い。
現場で長く働いてる人でも、企画意図その他という点で、末端でしかない部分は、或いは。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「大丈夫ですか?そんな事書いて」と、大概そう言う場合大丈夫じゃない…
「ゼビウス」に関しては当時の売り方としても、「謎が謎を呼ぶ物語が地形には隠されている!」的な煽り方をされていて…また演出的にも「自分から射線に入る様な真似はしない」敵は血肉ある存在として設定している!等々まあ、物凄く拘って作ってました、という話ではあり。もちろんその割にゲームは何処まで遊んでも終わらない仕様、ガンプって何ですか?も最後まで???のまま今に至るみたいな部分があり、主観的には成功してた、感じは今は、無い。硫黄島の決戦でも、マクロで見れば捨て駒でも、ミクロにしたら最終防衛ラインの真剣さだった、ろうし。そう言う意味ではゼビウスは現場主義的ではある、が。「で?」結論その他は今も、虚空の向こうではあり、続編でも通った感じはない。
要するに、宇宙から来た侵略者に立ち向かうって話だよね?
違います。
この混沌は今も、永遠に異世界を飛び続けている、のだろうか。
ともかく「大衆は神である」と言う理解は、100人いる中で一人だけ正解を言って、他99人が間違いを選択しても、「100人の中に正解はあった、99人が選ばなかっただけだ」”大衆”は間違えていない、失敗した連中が愚かだっただけだ、という思想、ではあり…実際には多数決、ではない。この辺踏まえて、「それは人々の為になるのか?」を議題に、「”大衆”の中に反論が無くなったら可決」と言う決着で選択するべき、という民尊主義になる、訳だが。この時、個々の「大衆」を形成する個は等価、というのが大前提で、意外と「正論」に力がない、というのも…まあ現実だとは言う。
”神”は居るが、人々がそれを信じるかどうかは別の問題である。
そして?「間違えた」時、正解はその他の何処かに常にある、訳で。
なので、「多数決的に同意が多い」と言うのは、事実と言う事には成らない感覚なのだが。
ともかくまあ、今の問題は「多数決の多数派が結果を出せない」時、悪いのは誰か?ではある。
一応、「事実」と言うのはその時、大きな正論として重い。
その時、「現場の声」と言うのは意外と、真実じゃない場合がある、訳だ。最近でも、か。コンコードというゲームが8年も開発期間費やして2週間でサービス終了という話で。その8年間、そこに従事していた人々にとって仕事は途絶える事は無かっただろう、でもそれは「流行っていた」からか?ではある。
「ゼビウスって、実は売れなかったんじゃないの?」は、ゲーム自身の出来と、その後の発展の無さと、幾つかある疑問の事例(焼き付き筐体が多かった、等)からの想定で、この想定が意外と現状に合致していく、というのが今の判断理由、ではあり。対地攻撃がある、”だけ”では類型に成らない、ゲームとしての続編?後継、”類型”が存在しない、というのが今も感想ではある。解らない敵、解らない戦う理由、解らない過去、それらを淡々と見続ける、のが「ゼビウス」の持つゲーム性?みたいな物で、この類型はその後、ほぼ存在しない。真似が出来ない、というより「何が面白いの?」でしかなく。もちろんか、類型が無いのは「商業的にも芳しくないから」だろう。では何故、ゼビウスは「売れた」事に成っているのか?だ。
”誰か”が、認識か評価に強い影響を持つ誰かが、それに並々ならぬプライドを持っていたから、では?
「そういう状況だった」訳だ、世界は或いは、今も。そしてそれでも、その中で売れる物がまあ、残っていった、が。しかしゼビウスは、類型を持たないまま今も、「売れた」と言う話を事実だと固執している…事には?
それは、なんなのか?ではある。或いは倒すべき敵か、それとも。
今も世界は、”この”把握では、ゼビウスに依存している。そしてその結果と共に、歪み続けているのだが…改変する道は、見えている様な、違う様な。
そこにあるモノは今も、見えない。