ともかく一番最初に、「マジンガーZとグレートマジンガー、どっち?」が問題になる。
しかし、実際に売れたエヴァンゲリオンなんかには、その境目が無かったり、する。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力し「翻訳」して出力
世間に対して否定的な視線の先にあるモノは
ちょっと、イラスト描いてたら物語が出来た。
アニメ?原案「東北姉妹ときりたんぽの夢」
絵柄の”古さ”と言うのにちょっと深刻はあるが。それでも最後はまあ、何とか?そして或いは、”この”感覚が今の作品には無い…というのも、ちょっと考えた面倒では、ある。
で、今のところ不意に思ったのが「物語はリアリティを、絵は鳥獣戯画で」ってニュアンスが一番作品としては売れた、という事には成る、のかなと言う部分。漫画、或いはアニメとして、描いているのは裸族、というかつまり動物か何か、である…特に服それはそのまま「毛皮」でしかない。「人じゃないのよ、人の形をした物なのよ」と言う深刻なセリフがエヴァンゲリオンにはある、が、そこに線引きして描くと如何なる「なんで?」にも絵としては返答しちゃう、というのがある…”これ”は人間を描いてる訳じゃないのだ。
しかし、作品が物語としての整合性みたいなのを追及か目指し始めると、だんだんそうは思えなくなる、のが人の性、ではあろうか。この感情移入しちゃった状態で描く時、本来は良くて犬か猫でしかない筈のそれらは、別の世界の人間として?血肉を持ち始めてしまう。絵的に言うとここに入ると「古い」と言う評価に今まで成っていた、それはまあある。理由は面倒に成っていくからだ、こんな事に。
そして、それは次第に執拗な問いと戦う事には成る訳だ。「なんで悪の組織が侵略してくる前に、ヒーロー達は登場しないのか?」とか、そもそもこんなペラペラレオタードにどんな防御効果あるんですか?とか、こういう恰好してる事に疑問は無いのか、とか。そのまま進むと?作品はやがて「嘘つき」的な評価と共に潰れてしまう。この先に進む上で、当時にしろともかく「王の権威」作品へのツッコミに何処までも返答する存在、というのが必要に成り…昭和は良くも悪くも”それ”を、昭和天皇に求める事が出来た、結果。作品の多くは「日本を、いや世界を護る、戦争を二度と起こさない為に」的なそこに集中する事に成って需要を確立、何かの黄金期に成った、訳だが。
それは、天皇陛下からお願いされたモノと、その辺のどうでもいいおっさんからお願いされたモノでは、前者がどれだけ下らないとか言う評価であっても、前者の方が重要である。
”この”感覚に、当時にしろ成れなかった、というのが境目の一つとは言える。
ともかく昭和が終わり、平成になって、昭和天皇の要求が”切れて”しまう結果、作品の主流はリアリティから外れていく、事には成った?ろうか、ツッコミに耐えられる物が無くなっていった。特に同人、一次創作をコピーして或いは独自要素を追加して自分の作品にしてしまう、という方向性の隆盛時においてツッコミは殆ど暴力的になり、更にその「実は鳥獣戯画」人間ではない人の形を描いてる、という方向はパワーを持っていく、事には成った、それは有りそう。この領域ならどんな荒唐無稽なデザインをしようと「漫画だから」で許されちゃうのだ。ただ、この作品が膨らむと?次第にリアリティが要求され、デザインの細部にツッコミが入り始め、或いは昭和の一次創作、それと同じ破綻へ向かう、事には成る訳だが…。
現状も否定的な?衝動の主体は、まあ「なんで破綻しちゃうの?っていうかなんでそこまで要求するんだよお前ら」そこにはまあ、集中してる気は、する。それはまあ、その方が面白いしそうじゃないなら面白くないから、だが。だんだん人間を玩具にしてる感覚に成っていく時、絵師は?人間性を問われてしまう、事には成る訳だが。
なんで?
確かに、そこに問いはある。
ともかく「今風」その理解では、ゲームの「原神」なんかが筆頭には成ろうか、「この肌ぴっちりで複雑な模様と構造の服は何処でどうやって作ったんだ、っていうかなんでこんな服が必要なの?彼らにはその恰好が恥ずかしいとかそう言うの無いの?」その疑問には「服じゃないです体毛みたいな物です」それで終わってしまうし、そしてそれである限り、野生動物の、或いは昆虫群の複雑な模様その他を考えれば「そうじゃない方がおかしい」くらいの感覚には成る、訳だ。「種としての個性」でしかない訳で…言えば?彼らはその代表としてか、その作品中には居る、事には成る訳だ、理解の一部としては。
いや、そんなつもりで考えてないんだけど。
「今風」その、一部面倒な部分ではある。動物の動画は”面白い”が、何処までもか?というとそれは疑問になる。可愛い仕草もテンプレ化していくと面白くなくなるし、かといってあえてちょっかい出すのも実は倫理上の問題を抱えていたりする。ともかく「わーかわいい」の、段階”だけ”を採取するのは意外と困難だ。平成の作品の多くもそうであるように、「今風」はどうも、利益性まで突き抜けられない深刻は、どうも抱えている気は、する。
かといって?エヴァンゲリオンは目指せない、というのが微妙な深刻には成る訳だが。
ここは人間のキャパシティの限界、だろうか。「物語にはリアリティを、ただし絵的には自由かつ無責任さを」その両方を意識する、事はちょっと困難である。結果的には「思想的には対立してるけど、一つの目的の為に我慢して従事してる」と言う状態が必要に成り…それが非常にバランスよく?安定してる結果が「エヴァンゲリオン」そのヒット、には成る訳だが、かなりその意識に成るのが面倒だ。どっちが上?優先?というそれを超えられない、結局多数決的に現場の意向優先に成ると、作品は次の港を目指して山へ向かってしまう事には。
かなり現場が追い込まれてないと、エヴァンゲリオンは創れない、訳だが。
その状態を維持し続けるそれは、結構面倒である、という現実は今も変わっていない、訳で。
「古い」事は問題ではない、事は解った?が。ただその結果、多くの「今風」にダメ出ししていく事に成る、そう言う深刻もある訳で。
「無責任」それは、最終的には良くないのだが。
キャッチーな「今風」か、イミフな深刻を纏う「古風」か。
流石に適齢の少女が全裸で走り回る様に、理由は付けられない(~_~)。