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あげちうのブロマガ

ブランドと実際と理想の先の絵の問題

60代の「仕事」の中には、どうしても「売春」それが含まれてしまう。

しかし実際にはこれはマクロで「何の利益も発生しない」ので、仕事とは言えないのだった。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力

「え?それってどういう・・・」不意にそこに、何かの裏切りの欠片

 

しかし、誰かが「私は私の自由を選択したい!」と言う時、何処かは不自由が出てしまい、最終的には売春という要求になり、そこには深刻な損失が発生する…その構図がある。”それ”を避けようとすると?特に男性側に自制が必要に成る、示威的欲求は我慢する、無理はしない。この時どっちを選択する?であり、ともかくそれで、どうも平成の作家の多くは地雷を踏んでいる、部分はある、様だ。企画、監督、現場、人はどうもこれ全部を一人でやりたい衝動に支配される訳だがその帰結は常に、破綻で終わっている。

昭和にしろ、いわゆるメディア的な成功者にならんとすれば”相応の犠牲”が必要だった、という事態はあって。無理が通れば道理は引っ込む、先の事態、エヴァンゲリオンを支持する!という帰結が当時、「就職氷河期世代が発生する」と言う可能性を、意識出来た奴は居ただろうか、犠牲者側で有っても。本来は、「貧困に陥る現状を変えたい!」その欲求は、主観的には問題ない「違う領域」から、”お金”を吸い上げるだけに成ってしまった。

内部的な、言えば「主犯」の一人の、演出家だった増尾昭一氏は、だからか、若くして亡くなってしまった。それでこの話はおしまい、ではあるのだがしかし。就職氷河期世代の苦境それは、相変わらずみたいな所はある。

詰め寄られる部分はあるだろう、「責任を取れ」だ。その時、それがどういう要求として現れるか?それも、まあケースバイケースではある訳だが…「仕事をしなければ」と、「遊んで暮らしたい」と。時々か、そう言う対立の狭間に立たされる事もどうも、ある。

後者は何故か?というとつまり、「もう売春はしたくない」と言う”そこ”ではある。その意識の中では「仕事」それは売春の事でしかない。”誰か”の自由は誰かの不自由、その先の犠牲者、それが因果で前者の前に現れた時、目の前にいる存在が或いはお荷物?でしかないと解っていても、救済というか…それは求められる場合はある、だろうしかし。

女性は、男性の、”夫”の極論としてその意向を発露しやすい。男性側は何を選択したか?だ。「仕事なんかしたくない」なら、或いは今までの協力者を捨てて、その地雷を踏む事にも成る、かも。協力者の存在あっての成功だったのなら尚更か、ともかく協力者にしろ、夫の意向に同意するなら何処かに犠牲者が出る、それが自分だったに過ぎない?とは言え、それはそれで理不尽ではある。

それは、浮気男の然るべき破綻でしかない、のだが。「で?」それは誰かが何か言うべき話なのだろうか。

犠牲側は、言えば借金取りの様な物だ。一緒に居ても吸われるだけ、ではあるだろうしかし、それを捨てる事は出来ない、借金の様にそれは今更の問題ではある。道理としてはその両者のお荷物?二つを抱えて、ともかく慰謝料と養育費、冷え切った関係の中でも”それ”を負担し続けねば成らない…訳だが。一般論では、話はそこで終了である、第三者が何か言える話ではない、が。

神の救済は果たしてこの場合、あるのだろうか。ueがくれば、如何なるマイナスも0に成る…プラスもだが。その先にある新たな1は、事態を改善するのか?という話の前に、まず”ここ”に神の救済は有るのか、そこは深刻な謎ではある。

ともかく?”作家”がこんなものを抱えた状態で売れる作品が作れる訳がない…それは確実だろうか。

把握する事態のイレギュラー的なそれとしては…打開という絵は有る、かもしれない、のだろうか。協力者と犠牲側には、然るべき賠償は設定しつつ”本人”には引っ込んでもらう。代わりに或いは、「違う何か」は、賠償を確保する為に”別な部分”に活路を求める、様な。

・・・何となく、それはそれで、実は同じような絵じゃないのか?という気もする。

就職氷河期世代の恋愛事情?そう言うのは、ちょっと苦境で複雑ではある。

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