「神格が上がる」というのは、有るかもしれないが。
つまり、「責任が増える」時。そこにはより面倒もやってくる。
「大衆は神である」その思想的に言っても、”その”支持と結果は神の視点で測られ、いわゆる「徳」と言うモノとして累積し、相応の値の先でランクアップする、と言うのはまあ、あってもおかしくない。結果で、昨日の様な話と、「だから、罰としてはこんな感じ?」が、意見として通ってしまう、可能性が多々出てくる、訳だ。良い話か?と言うと、今後にしろ、つまり発言には、相応の危険性が付いて回る事には成る訳だが。
前に考えた「社会システム上の最下層に、最上位が置かれる」その、「最下層」が自身の責任下でどんどん広がっていく結果、想定を超えた「問題のある状況」へ陥る事には成る?のかもしれない。
「責任を背負う」と言う事は、改善でもあり、悪化でもある訳だが。
ともかく「出来る事が増える」そう言うのは、有り得る話かも。
「大衆は神である」と言う、それに対して今だに断言はできる、人々の同意の集合、”それ”が神の正体。その”神”とは、騙せるような存在ではなく、物理法則的に因果律を、無感情で廻してくる、そう言う”何か”ではある。状況を改善したい?なら改善しなさい。それをするのは人間である、”神”には最終的に問題は無い。人の苦しみを打開するのもまた、人の手に寄る時、状況が悪いなら、それは人間の問題には成る。ともかく”神”の査定を通れば、今の時代、インターネットでの密かな発言だろうと、それは優先され、或いは具現さえする。
その視点で、今は良いのか悪いのか?だ。
「問題がある」のは、神の責任ではなく、構築したシステムの問題ではある、必要なら改善せねばならない。と言う視点で、自身のそれには問題を感じてないが、その他には、切り捨てが発生しており、それが原因で経済的な窮乏、それは起こっている。対比として”雅”市場がある時、「しょうがないんだ!」は、今は言えなくなっていて。結果で、その既存の権力は、どんどんと信用を失って行く、そう言う構図はある、筈だが。
”雅”市場内部が問題無ければ、新規の参加者はむしろ歓迎、なのだが。
価値観の相違は、ちょっと無視出来ない騒乱のネタ、という事には成るのだろうか。
今やってくるのは、熾烈な椅子取りゲームの敗者ら、ではある。状況も悪い、次第に濃くなっている時、スキルがそれしかない時、共存共栄、的な方向を善とする”雅”市場には、どうも相性が悪いのかもしれない、競争原理への傾倒が強い訳だ。”雅”市場でも十分な成果は出せず、元でももちろん出ないと言うそれは、本人の問題でしかないのか、或いはではある。
そして今、売春婦を否定するという流れの中でその、市場原理の敗者、それへの否定はより強くなっている、かもしれない。それまでは、主な客だったかもしれない彼らは今、累積する自身への否定感を、何処で?
古いシステムの限界というべきか、或いは。
ゲームは確かに、劣等、それを強調はする。