理解と実感には、少し差が有る、それは普通の事ではあるのだが。
しかし、見えている絵が現実と同調しているなら、理解は実感を超えにくくはなる。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「残念だったね」なんだか嬉しそうな時、その選択の行方として正解は何処。
流石に国債発行額が1300兆円に届きそう、という状況では気持ちも落ち着かなくなる、という事だろうか。”普通”の会社ならそれはもう経営破綻している、と言っても良い状況、もちろん国の借金は屁理屈の塊みたいな物でしかないにしろ、ともかく「利益が増えていない」的な話はどうにも深刻さの原理には成る。歴史上も内需拡大に最終的に成功してる国はあんまり無い。先進国は単に借金に耐えられるだけ、でしかなく、そうでない国はハイパーインフレに陥ってめちゃくちゃになる、それが今の現状だったりする訳だが。
創作で経済を改善する!とか、その理解は実感の前には、ちょっと無理を視たりもする。
ゲームそれは、あくまでもゲームである。仮想現実、しかも「人間が描いた何か」でしかない。最終的には「訓練」であって、そこで成功した!という事は直接的な結果には繋がらない。あくまでも「似たような事例が有った時に、対処し得る能力を得た」その一例を獲得したに過ぎない。”そこ”にどれだけ正確に現状が描かれている、と言っても。ゲームである限りは成功しても、状況の改善には直ぐには繋がらない、描かれた絵と現実には、時間の問題としても必ず異相はある訳で。
また選択としても、「難しい」=「無理」がそこに現れるなら、それに従う時、その無理を前に無理をする事も無くなる、訳だ、それはその後の利益でさえあり。「出来ない」と解っている事に挑むのは間抜けの様な物ではある。
筈ではある。しかし。
「という訳で。無理だから諦めてくれ」
その時、自分も含めてそこに居た数百、或いはの人々を見捨てる、それは正しい事か否か。
自分の視点では、自作の「ダークネス・ダンジョン簡易版」は、これでも「RPGツクール」での一つの成功例、そう言って良い”感じ”はする、のだが。現在の理解では…一般論的にはそうなっていない。もちろん一般論ではその方が正しい、数値も出てない、話題にも成っていない、それは成功したというのか?そもそも、利益は得ていないのだろう?ただこの時、結果でこのツールは、「成功例が無い」と言う、そんなツールという事には成る。
”ここ”に居る人々は、表側で?「糧を得る」手段それは、まあ無い訳だ。
なんの為に?と言えば、ファミコンの頃から続く夢への挑戦と失敗と憤慨と呪い、その捨て場、ではある。敗者らの遊び場でしかない。今成功してない人々は、皆ここで再び「無理だ」の実感と共に諦めて貰う、その為の場所だ。ただまあ、それだけにここには呪いが集中していく事にはなる。前に出てる側と違う側、そこに有る境目は何処か?だ。結局は、150人乗りの船に乗っているか居ないか?それでしかない。その時、ここへの否定はそのまま、既存の市場それへもそのまま向いていく事にはなる。結果、状況は更なる高性能化!新しい領域!を求め続ける事に成る、「今までの環境はもう古い!」訳だが…現状から言って、それも限界が来ていて。大した変化が無い。
結局こういう切り捨て領域を創れば、その市場その物が切り捨てられる、そう言う現実はある、訳だが。
打開しよう、とすれば。この棄てられた領域で何とか利益性を、みたいな話になるしかし。致命的なのが成功例が無い状態から、”今、前に出ている”人々に挑んで勝つ、必要がある、事だ、数値も話題も無いのに、だ。論戦のルールの問題ではある、「大賀さん」それは、そこで審判として意味を持つ、のだが。多少、ウケたという話は、銀行に対してあまり請求力は無いだろう。論を尽くそうと、「評価されていない」それは、致命的である。そして、棄てられた領域に居る人々に対しても「あなたの方法が間違っていた」みたいな事を言うそれは、相手からの反発は必定ではあり。
これは難易度云々の問題なのか?だ。
ゲームとして、この光景が”そこ”に描かれている、時。「難しい」しかし挑む必要がある、という意識は出てくるが。冷静に考えても「無理」なのではあるまいか、ゲームへ表現された難易度は、あくまでも、だ。そこを越えていく、というのも良い結果か?ではある、奈落へ自ら進むに近いのでは。しかし、「打開し得た」時のフィードバックは何か期待しても良い部分、それが有る様な無い様な。
…そうして、プレイヤーは何かを供出し続ける事に成る?
馬鹿は死ななきゃ治らない、のだが。それは今、何処を指しているのか。