「大衆は神である」と言う思想的には、独裁性、王様の横暴それが一番の懸念には成る。
しかしその、極論化する先にあるのが「ゲームであっても創作は禁止」的な、そう言う事態ではある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「た、食べずらい・・・」時々ありそうな、ネット動画の創作料理動画とか
それが一応の最新作(・・・)である「甘い話の帰結」と、言う事には成る。それでも一応は「発展させれば」そう言う余地はある、訳だが「そこまで」しか出来ない、無形の枷だ。”それ”が、その何かの制約が悪意によるものであろうと、「大衆」と言う神の意向を否定しようとするならそこに壁は出来る。それを越えんとする時、相応の損失は理不尽であろうと対価である。
という理屈は解っている、つもりではあるのだが…「たかがゲームで」も、そう言う話に成ってしまう現状にはどうも辟易は、する。難しい状況をクリアした、時点でその結果には価値が発生する、が。その大きさは逆に、優秀とそうでないモノとの境目をより強調してしまう。先行者と同じ事が出来て普通、という時、その末端にはどれだけの切り捨てが発生するのか?だ。今のゲームは、か。「プレイ内容その物が映像作品として意味を持つ」結果、発生させる数値も巨大化している、そう言う事は言えるのかも。
最後は出禁みたいな感じで終わりとは、なんとも締まらない。現実はどうなのか?ではある。「ダークソウル3」を結局は、相応の”上位な人々”は、有名な映画監督とか大会社の社長とかはクリアできない、物理的ではなく倫理的に、だが。結果で彼らが「面白くない」そうなる時、それに対して人々の反応は?ではある。下位の人々がそれに同調する時、やっぱり「面白くない」そう判断するのか、或いは。だとすると?その数値の正体は果たして?だ。まず隗より始めよ、的な3Dゲームの代表作、それは本当に売れているのか居ないのか。
もし「売れてない」としたら、「創られた数値に過ぎない」としたら。その先には何が有るのか?ではある。
そんな、「”上”の存在にも配慮を」と言う事を言い出せば、作品は「映画の途中で”多少”面倒な困難をゲームで突破する」様な物にはなる…プレイその物には意味がない、或いはテトリスでもいい、主体はあくまでも物語でありそれを創ったのは制作チームであって?プレイヤーはあくまでも、ページを捲る読み進める困難を対価として支払うに過ぎない、感じには成る。ゲームとしてそれは正しいのか?だ。そして、問題は物語の方に成る時もちろん、”それ”に対しての独裁性もまた、それは強く否定される事には成る訳だが。
それでも「”上”の人々にも配慮を」それは、今のゲームに不足している要素、かもしれない?
ともかく「ダークソウル3」それは、上の人々がプレイするには倫理上の難易度が高すぎる、そう言う失点は抱えているとは言えようか。100tの玉砂利をショベルカーとダンプで運べ、要求はそこが妥当だとする時、この作品はどう変化する物か、ではある。
「出来たら凄い」は今、ゲームとして妥当では無いのかも。