理解として仏教での「弥勒」でさえ、実際には”神”ではない、らしい。
それは「釈迦」も「仏陀」も、だ。修行の帰結としてある「偉い人」その名称、との事。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
猫に連れられて行った先に、みたいなのはまあ時々あるネタ
今問題にしている?「中華思想の皇帝」それが、”そこ”から発生しているのかも、と思うと。それはそれで対処し難い壁ではある様な。しかしマクロで見ると日本には「神道」と言うのもあり。それはそれで別でありつつなんか、なあなあで同居しちゃってる訳で。日本の場合、最終的にその頂点には「天皇陛下」それがある、というその。それでいて「天皇は象徴である」時、その存在は特に意識されるモノでもない、事には。
…なんとも日本は、信仰の感覚ではなんとも混沌とした国家ではあるのだった。
仏教によるその辺の対処、「強力な独裁性は、対抗する邪を産む」それへの対抗は果たして?ではある…一般論では「堕落した」で否定してオチではあるのだが。アインシュタインも、「シュレーディンガーの猫」の話ではその例を出した人々を納得?させる事は出来なかった、という話で(実際には「あり得ない」と言う話が「世界には不確定がある」と言う意味で一般論化して、それを説明出来なかった)。仏教の理解とアインシュタインの感覚とは共有する部分は多々あるだろう、そこにある事象はそのまま受け入れつつ、理解して対処を模索する。最終的には「プログラム」それも、そう言う感覚の産物ではあり、しかし。そこで神道それは、「ハード」それへの構築には成る訳で。兎も角、最後の対処は人間がせねば成らない、訳だが。
で、「強力な独裁性は、対抗する邪を産む」それへの対抗は果たして?には、返答が無い様な気は、する。
「細かい部分は偉い人が何とかしてくれる」その結果しかし、”そこ”に居るのが人間である限りは、どうしても切り捨ては発生する、もちろんか道理として捨てられて当然、みたいな邪ではあるのだが。面倒な道理を言えば、誰かが少し無理する先で、「不運」それが発生し、その結果でその存在が世の中を否定した所に他の否定が重なっていって魔物化する、それは誰の責任か?という事にはなる。仏教の「偉い人」を”神”という扱いにしてしまう認識の問題だ?それはそれで無責任の様な気も、しないでもない。
とは言っても「神道」にしろ、「鰯の頭も信心から」が真理ではあり。そこにモノがある、という事は多数決では変わらない物がある、というそれは。とは言え状況の打開には何の意味も無い話、だったりするような。「神とは何ですか?」に、明確に返答し得た宗教その他は無い、という認識の先では、少し面倒はある。
「大衆は神である」それは、既存の宗教その他の中に、同意し得る感覚が無い…という事ではある。
「神とは、良く解らない真理の事である」「連れてきました」くらいに、そこには異相がある。
”そう言うつもりになる”という、そこに有る是非は、果たして。