今の最大の問題は、「どうすれば売れる作品は創れますか?」ではある、のだが。
ただ実際の現場的な問題は、「どうすればグラディウスは創れますか?」ではある混沌には成る?
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
意外と昔のゲーム開発室って”こんな感じ”だったみたいな話はある?
昔の環境と今のそれと、だいぶ変わっている事が、現状で何かの衝突に成っていた、可能性はある。要するにシングルタスク、低メモリでの作法と、マルチタスク、高メモリでの作法その対立ではあって。前者は本を読んで時々資料を見る、みたいな感じだが、後者は複数のテレビを同時に視聴してる様な様ではある。人間の感覚ではシングルタスクの方が負荷は少ないし、メモリ的にも節約には成るのだけどしかし、「複数の存在で分担処理できない」と言う致命的な問題は後々面倒を呼んでくる、のは定番の深刻ではある訳だが。かといって人数が多い時、それを効率的に分配するのは結構深刻な面倒ではあるのだった。
「どっちが良い?」この辺は昔から、で。DOS時代から抜け出せない人はそのまま辞めたりしてた訳だが…最近のレトロブーム?で、そう言うのが再燃しつつある、それは有るのかもしれない。
いわゆる「オブジェクト指向」と言うのが、メモリが少ない時代の方法論とは相性が悪い訳で。
ただその頃の”それ”が、一部の人々の特権だった、それはそれとして現実だろうか。
20年くらい前、だろうか。何かの解説本かに「なんせまだ、定年で退職したプログラマーが居ない」そんな業界だ、という話があって。ゲーム業界には「年寄り」と言うのが居なかった、訳だ、みんな若かった。無理が通れば道理は引っ込む年齢、というか…そんな人々しか居なかった結果、”そこ”に出来たのも「そう言う作品」ばかりで、”それ”をのちの世代は正義として浸ってしまった?みたいなのはまあ、あるのかもしれない。
少ないメモリを無駄なく使う事にこそ、美は有ったのだけど。
その結果視認性が悪くなり、他にそのプログラムを再現できる奴が居なくなる、訳で。
「自分が居なくなる後」と言う、それを考えてなかったのは、当時にしろ問題だろうか。
「ゲームの作り方」
企画を立てる。
ゲームエンジンを構築する。
企画とエンジンに基づき中身を創っていく。
シングルタスクもマルチタスクも、結果的にはこんな感じで同じ話ではあるのだがこの時、最終的にシングルタスクは10KBで済む話が、マルチタスクのオブジェクト指向だと100KB、には成る。単純な視点では、後者の形式ではメインプログラムからいちいち各オブジェクトを呼ぶ訳で、その際の命令その他がシングルタスク的な視点では”余計”でしかない。また、1000個のオブジェクトをタイリングして地形を描く、というそれも、前者はメモリに並んでる番号を順番に画面に描いていく、だけだが。後者は地形マップ一つ一つをオブジェクト化して並べたりする。前者はファミコンRPGのマップで、後者はアーケードの、特にシューティングとかの地形ではあろうか。地形が動いたりする処理は当然か、後者じゃないと出来ない。
膨大なメモリと高速なCPUがあって初めて、オブジェクト指向は意味を持つのだがしかし、古い感覚は今も、前者に何かの執着を残していたり、する。
今、「何を目指しているか?」で、その選択は大分変わってくる、という感じには不意になった。レトロハードでも、意外とお客は居る、みたいな幻想は、ちょっと感じる現在だったりもする。捨てる必要は無いし、状況的に利益性?そう言うのはどこも似たか寄ったかかもしれない。わざわざマルチタスク環境でシングルタスク環境を構築したりするくらいではあるし。ただまあ一応、「無駄のない」シングルタスクの”それ”は今、あまり考えない方が良い話に成りつつは、ある。
「ゲームの作り方」は、実際はマルチタスク、シングルタスク共に共有し得る、結構な発見の筈なのだが。
「割とどうでもいい」のも、何かの実感だろうか。