ぶっちゃけ言うと、クリエイター志向は、ゲーム実況者には向かない。
「駄作」を認めたら、自身の作品も駄作にしか成らないからだ。
ゲーム実況の目的は何か?と言えば、もちろん「ゲームのPR」である。このゲームは面白いですよ、を視聴者の購買意欲に繋げる、とかが目的だ。その為には?そのゲームの良い部分と言うか…それを掘り出して?或いは「実証する」必要はある訳だが。それでも限度はある。
日本人にとって、「戦争否定」それは、文化への強い要求だ。ゲームの目的の9割がそこであって、”それ”が無い作品をゲームと認めない位だが。それはアメリカなどにとっては少し違う訳で。実戦前の訓練、的なニュアンスの方が、彼らには意味が大きく?「ここで戦争その物を完結させる」それはやっぱり今も、それは日本と似て、一般論には成らない、感じはある。
どっちが良い?と言われれば、「実際に戦場で殺し合いをする」よりは、「ゲームで決着に成った」方が良い、少なくとも命を失う事は、後者には無い。しかし、上の方の感覚?100億円とか、そう言う「お金を動かす側」は、今もそうは思ってない、ロシアとウクライナで戦争が始まった様に、だ。どっちにしろ、ゲームでの決着、”それ”には不服従、というのが現状かもしれない。特に今回のロシアとウクライナでは、ロシア側が例え勝利したとしても?利益に関してはほぼ無いのだ。両者とも、困窮を深めたに過ぎない、最善は「戦争をしない事」もちろんそこだが、それは選択しなかった。ゲームで決着して居ればこんな被害は出なかった、が。ゲームで決着に成った限り、相手からの略奪も出来ない、という事だったろうか。
どっちにしろ「表側」ではある、或いはアメリカでさえ世論?的には…そうかもしれない。その辺を上手く立ち回る術、というのが何処に有るのか、「それは間違ってる」と解っていても、世論?に流され開戦、というのは歴史の定番ではあって。理想は今だ、何かの具現を見せない。本来なら「売れる作品を」目指す結果、「面白い」その感覚は共有されて行っても良い筈だから、だ。最終的には「どれをとっても面白い」棚に並んでるどれを買ってもそんなに損した気分にはならない、のが理想だが。戦争に関しては今も、何かの境目で志向は、逆を向いている。
日本の場合、「単なる遊び」として、戦争を題材には出来ない。
アメリカの場合?それは「単なる遊び」以上のそれには成らない。
主観的に正論は前者だろう、しかし、現場的現実は後者にある。
自分は後者を愚者だ駄作だ、と思うが。その時、そこにある9割以上の作品はゴミではある。
後者は、或いは「そんな暴君に対して」戦いを挑んでいるのだ。自身らが「面白い」正しい、と思うモノがお金に成らない、それは間違ってる。その前にある壁を破壊してこそ、未来は先へ続くのだ、それはスペースシャトルの頃から、その世界では定理である。
旗色が悪い?にしろ、そこには勝利への執着は重く、剣呑を纏ってある。
「黄昏の狩人は私のモノだ!」相手は今も、不意にそんな声を出したりする。
インディアンの土地を奪い取ったアメリカ、という…そこに巣食う魔物だろうか。