現実にしろ、断罪し罰せられ投獄されても、数年後には出所するのだ。
その時に、その人物が過去の過失を過失と思ってない、場合は多々ある。
コミケに出品した、あらいずみるい氏の絵がSNS「X」上で、「AIっぽい」とかで少し騒動。これに対して亜宮騎亜氏が「絵師なら状況に合わせて絵柄を当てていくのは当然」と、擁護。結局、技術系の視点では「オーダーが”そういう物を求めたから”それに応じたモノを描いただけだ」と、そう言う事、な訳だがしかし。そう理解するとつまり、「オーダー」があって?そのオーダー(あるいは下絵、方向性)が、或いはAI絵だった、という事に成るのでは。
現状の理解で、そのオーダーを出せるのはまあ、「売れない出版社の編集長」広告代理店に強い影響力を持つ人、な訳だが・・・。何かの実験みたいな話だったのだろうか、そしてそれが、やっぱり何か、問題が出た。
その人物が関わると売れなくなる、のだ。しかし、そこにAIを噛ませれば、少しは?
やっぱり駄目でした、そんな感じだった、とか。
それは、想像以上に深刻さのある話かもしれない。現状の理解では「カウンタ制御」票の操作、それを行うと、それをした事の責任者は利益性に見放される。技術の問題じゃなく、自身にフラグが付いてしまう訳で。「大衆は神である」その思想的には妥当、故にそう言う事はしない様に、神は誰の心の中にもあって自身の行動を常に見ているのだ。誰にもバレなかった筈だ、それは有りえない。
と、それは単に信仰でしかなく、それを他者に要求できない現状はある。「被せ」と言うパクリ技と、その結末の様に、評価は良いのに利益に繋がらない、そんな事態が累積していく事には成る訳で。「理不尽だ」そこについ同意してしまう部分はある、その時、神の視点ではどれだけ技術が有ろうと労苦を費やしていようと、ダメな物はダメだ。その悲痛は、想像に難くない。
相手の「納得」が有るとはまあ、思えない。
そして、想定ではこの状態が30年は続いてきた、とは言える訳で。それは過失と言って良いのかではある、もちろんかそれによって発生した機会損失に現場側の苦痛、そう言うのも累積はしている。もちろんか、既に何かの倫理的な枷も超えた状態だ、打開される、という状態が想像しにくい…しかし、罰する理由も今は不意に、無い。
昭和天皇も許容してきた話、である。公的には”過失じゃない”のだ。一族の「領土」を護る為に、一人二人が多少の苦痛を背負う、それに何か問題は有るのか?ただ、それが自身らの後継者だった、というのは、その思想の大いなる失念だったというのはあるだろうが。
「カウンタ制御はしない方が良い」それはまだ、「タバコは体に悪い」それに近い話である。