それは改善なのか、或いは。
ともかく自身の理想、それが通るとしても、”ここ”はその時最大でも百人の中の一人、でしかない。
「シン・へドラ」ちょっと私的に補完して一人で納得するのは良いが、結論的にはやっぱり、本編映像は、”それ”を描いてない、と言う結果は重くある。結局、自分の理解では庵野秀明氏は、「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進せよ!」で、”これ”をやってしまい特撮領域に否定され、その結果アニメに行く事になった、と言う把握。
当時にしろ、現場にしろ、”この”補完は出来なかった筈、ではある。そこへ向くのは理不尽な罵詈雑言だ、クオリティ的には決して劣ってないのは相手だって解ってる、しかしともかく「これじゃダメだ」それは良く解るが。言われる方も、それに対しては幾らでも反論が出来る、その溝は、修復不可能な迄に広がって行った?
その辺で入ってしまった亀裂は、今ももちろん、当時と同じレベルで残ってる感じが。
「創作が売れないと、経済は活性化しない」と言う、自身の結論にしろ由々しき事態で、その辺でしかし、状況的にも企画側でしか言えない現実は、ある。”この”理解で現場に居たら、”彼ら”の敵にしかならないと言うそれもまあ、重い。或いは自身の最大の武器である「利益性」それは、そして逆説的に”システムに”否定されており、「結果は企画側でしか出てない」訳で、それは、そして重い管理下にある。それが自分の設定したシステムに寄るのかそれとも悪意かは、まだ良くは、見えてない。
ともかく、”これ”をしちゃった後で、パイロットは「ちょっと間違えました」で済むか?だ。
戦場での何かの高揚、狂気、その果てに有るそれは、良くある話としてしかし、何かの汚泥の様に、今さえ量産され続けている訳だが。
一度、”ここ”に踏み込んだらもう、この過失は最後まで付き纏うのだ。それによって失ったそれが無ければ願う未来に届かない、時。それは自業自得、だろうか。ともかく命じた人々、それは多くもう、他界している。
残った「本気」と、それに伴う結果は、その人にとっては何かの理不尽、それと共に損失を…そこに広げていく訳だが。
「庵野秀明」と言う存在は、そう言う人々の、何かのフラグシップとして今も、居る訳だ。
結局は、アートスケール的には50点前後にしかならない、”それ”を何とか利益にせねば彼らは滅ぶ、そう言う現実を前に。
現実はどっちを見ているのか。
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