償いかの済んだ人間に対して、過失ある過去と同じ扱いは出来ない、のが理想かつ倫理だが。
人間の感覚で言うと「感情論」と言うのが、「形而下の状況」ではある、それがそうは言わない訳だが。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「お久しぶり、彼女とは仲良くやってる?」ネタか過失か問われる時。
現在想定してる?「文部科学省の汚泥」的なそれは、他人の飼い犬に毒を盛って殺す、様な事をしでかした、が。形式?倫理、そう言う物的には「勘当」権力との縁切り、という事態には至ってか、それにより過失その物はそれで不問に成った、的な部分はまあ…ある。喪失した、とは言っても10年以上使用していたPCではあり、データの殆どは、生きても居る。一般論での過失は器物損壊程度には成るのだろうか。ともかく「BAN」権力側による強制排除、が認められてる時、”それ”は現場の担当者その過失に過ぎない、盗聴器を警察が使用しない訳じゃないのだ、大学入試の採点ミスも、担当者の謝罪と或いは賠償金以上は要求できない。
「登録された個人情報を規定の利用法以外に使用する事は違法です」しかし、バレなければ犯罪に成らない。
悪用される事もあれば、未然に被害を防ぐ、事も多分ある。兵器もまた、抑止力としても侵略の武器としても使える、物事には常にプラスとマイナスがあって。一応、「倫理」それは、”ここ”が大分か抑えた…事にも成った気は、する。文部科学省自身としての倫理は語りにくく成った、訳だ。「大衆は神である」それにとって好ましい事が正義、そうでないなら悪だ。グレーゾーンも勿論存在する、それは、その都度神判される事にはなり、その蓄積の結果で現状は構築されている。
ともかく物事は、そんなに直ぐには打開し得ない、気持ちだけ急いても、「時期」と言うのはまあある。
という訳で状況として要求されているのが、その「贖罪の済んだ存在に対する対応」その是非ではある。また?150人乗りの船、その船長かが犯したか抱えたかの問題を、自分は、この思想はしないのか?も議題として深刻だ。「切り捨ては作っては成らない」訳だ、特に、贖罪の済んだ相手を否定する事は出来ない、理想としては。
ただ感情論は、そこで忌避感に満ちては居る。
「船は続かない」にしろ、船の体制は現在、島の方にも適用されつつある、数が圧倒的にまだ、船の方が多い。何かの脅威がなくなり、新しい体制、というにしても、以前の問題無い部分はそのまま要求されたりする時、そこに以前の問題もやっぱり残っていく感じはある。一応、現状では王の場では「最後は大賀さんで」紛争解決機構で、最小単位としては「大衆を神として、反論が無くなったら可決」それを決着としている、要するに法律化した、のだが。問題は無くなったか?というと、感情論は相変わらず、理想との喧嘩を続けている。
現在の王の前には常に、「反するモノ」それが常に対等なそれとして現れる、訳だ。
悪夢のようなモノだとしてもその時、王は期待される絶対性、それは持てない事には、成る。
「話が違うんですけど」それは王に成らずとも、常にそこに有る不満だ。それが多分、次の王の脅威となっていく訳だが。ともかくあらゆるものがブラックボックス化していく現代で、倫理の問題はより深刻化していたにも関わらず特権化に舵を切ってしまったのは、大いなる失策だったというのは、多分。
「ネットワークを扱うプログラムは、1つのブロックは30行以内で、そこに仕様書とチェックリストを付加、一人が一つの階層以上を担当しない様に」システム側の視認性を良くする時、この辺もある程度は抑止可能になるのだろうか?