あげちうのブロマガ

事実と言う神の前で道理を問う

結局?「ワンピース」の疑念というかは、「売れてますけど」それで、終わったみたいだが。

それでも、不意に「そう言う衝動」が発生する、という現状では、やっぱりある訳で。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

報道と言う物の真実は、果たして善か悪か、ではある。

 

自分の信仰か、「大衆は神である」神は”全て”を見通す眼を持っている、というそれはまあ、何とか「大賀さん」により自制した、事には成るがしかし。こういう信仰を持たない時、その衝動はやっぱり理不尽な「暴走」その原理に成りかねない、というのは多少の実体験的な実感ではある。”何処か”の、何かの混沌が膨らむと、意識の中で暴れはじめる何かが有る、訳だ。”それ”が有らぬ幻を自身の中に育てて、そして自分を操っていく。

・・・今だって、明確に否定出来てる訳じゃない。不意に疑問、それはそこに残って居て、「正しくない」そこへ、自身を駆り立てようとしている…そんな雰囲気はまだある。

「王が居る」と言う、その恐怖ではあるのだが。その0.01%以下の損害よりも、その存在による99.99%の利益、そっちが優先されるのは当然、だがしかし。その時、過去のローマで行われた民主主義もどきの様に、「その日、一番儲けていた奴が民主主義によりローマから追放された」そう言う事が起きてしまう、訳だ。

この辺、悪意?によって意図的に引き起こされてる感は、やっぱりある。あのトロッコ問題も結局は、「多の為に個を犠牲にするのはやむを得ない」そこへ帰結させようとする、そんな問いである気はする。深刻な対立と混沌の狭間に置かれた、何かのスイッチでさえある。知っている奴は、”それ”を或いは押す事で戦争を引き起こせる…そう言う事は無いのだろうか。

”その”原理として今も、「カウンタ制御」それは、深刻な危機としては、ある。

トロッコ問題の答えとしては「その前にトロッコを止めろ」と言うそこに実際には帰結する、のだが。今の理屈では「祈祷」それを見つけた人の”それ”が何かの簡単な奇跡を起こす、というのが期待される訳だが。そこから先は神の答えではある。個の方がその時悪であるなら?トロッコはそのまま止まらず個へぶつかっていくのかもしれない。神の視点とその帰結は、”人間には”理不尽この上なかったりはする。

最終的には思想の問題だ、「切り捨てはやむを得ない」すると、それは廻りまわって偉人であるその人へ襲ってくる…”物理的な道理”ではあり。また、その時には「それによって優遇される環境に居た信者」が、犠牲になる場合もあって。そして、その結果としてその偉人は過失を問われ、その環境から排除される訳だ。物理を前に切り捨てを容認したその思想は帰結では、そう言うオチに至る。

そういう「物理的な道理」を前にしても、やっぱり「カウンタ制御」それは、今も消えた感じは、無い。”それ”が悪なら最後は、先の例の様な帰結へ至る、筈ではある。自分は何もせず、ただ”この”日常を続けるだけで状況は改善していく、のならその方が良い。

だろうか?

平成はもう、結構過去の話に成ってしまったのだが。

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