ふと気づくと、創作の「評価」に関してかなり混沌としている現状では、ある。
理屈はある、しかし実感として、だ。世間は今まで、その理屈では語って来なかった。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
優位、というのは何かの理不尽と共にはまあ、ある。
自分の理解では創作それは、「物語」それを土台にして「価値」必要性、それを形成している。それはどんな創作でも、だ、漫画でもアニメでもプラモでも、或いは家電であっても、である。何の為に存在し、どうなると達成なのか?それが「確かに」と言う万人的な同意と共に形成されていれば、それは価値がある、というのが基本的な視点しかし。商品が増えて多様化していくから、だろうか。単に炊飯器がご飯を美味しく炊けます、では物語として認識されにくく成っている…というのは有るのかもしれない。
・・・という視点で今の商品は、いや過去もだ、創られてきたか?という点で、ちょっと壁は重い。
言い分としては、経験則を「自分の主義」みたいにして語ってきた、だけではあり…その多くが、第三者が真似ても大概うまく行かない物、ではある。運も実力のうち、とは言うが、ともかくその時、そこに知恵は存在しない、というのも現実だろうか。ぶっちゃけ、無情な理論家よりも熱意ある非力、の方が幸運は起きやすい、のが道理と言う物で、そう言うのが尚更、定型化を阻害している、というのはまあ、ある。
もちろんか、そう言う”技術ではない物”で作品の「価値」が決まってしまうという事態に、何かの憤りは渦巻く事にも成る訳だが。
私見での「ゼビウス」も、実際にはそんな「無情な理論家」によって形成されたヒット作もどき、という事には、成る。その時の、「良い作品」のデータを集めて作った作品はしかし、本来のオーダーからしたら戦場で犠牲にしてしまった兵士らを侮蔑さえするものに成ってしまった、市場もまた、実際にはそう反応した。その先で要するに「私と言う個人は王に否定された、だから」と言う理解が、理不尽を背負って怪物と化していった、感じで。それは今も、原理的には先の「”熱意ある非力”の方に価値が発生する」現実へ、戦いを挑んではいる訳で。
今も根っこは、否定出来ていない気は、する。
そして自分の現状もまた、カウンタ数値としては反映しない、という制約化の中にいて…それを正論化出来ない。視点で見れば、主観的に「同じ状況」に追い込まれてる、訳だ。”相手”もまた、如何に高いレベル(主観)で作品を創ろうとも、市場は或いは今も反応しない。それは、理不尽ではある。
”それ”が、例えば飯塚幸三氏の事故として帰結してしまったとしても、だ。自身の「正義」では結局、”誰か”を生贄にしなければ朝食さえ食べられない。そんな風に現れた結果にも、この感覚は最終的には同意と言うか、折れる感じは、無い。
「理不尽だ」それは今も何処かで、他の声を一切否定して呟き続けている…そんな感じは、ある。
ただ最終的には、何かの取り返しのつかない過失から逃げている、というそれだけかもしれない。
ともかく、理不尽だ。