個人的に思うが、ハーレム物?は、ラストもハーレムオチしかない気は、する。
問題はそのオチを世間か作者、或いは作者の配偶者さえもが認めない事、だろうか。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して翻訳して出力
勝者の門と呼ばれるその道はしかし、通って帰ってきた者はいない、という…
話は最近の問題ではない、結構前例が幾つもある。ヒロインたくさん出して結局、修羅場に成って壊れちゃう、という作品は幾つか散見された、様な。「魅力的なヒロイン達、主人公は誰を選ぶのか?」が、この場合の大概のテーマというか関心毎には成る、訳だが。結局、「等価な二択のどっちが正しい?」と言う話を超えるのは、人間でなくても不可能、というオチではあるのだった、選べない。
現実的には、ある程度の生活力?を持った男性は、複数の女性を被保護下に置くそれは”普通”だったりする、というリアルは、ある。今みたいに経済が弱い場合は更に、だ。一応?理解ではこの辺、「ガンプラを幾つ保有するか?」と言う話でしかなくは成っている、が。それは”古い”というべきだろうか。或いは社会の余裕の無さというべきだろうか。その話は女性との関係に、どうしても発展する。
平成は本当にか、創作に対して無責任な時代だった、というべき、だろうか。
というか、「冗談だよ」までで、何とか金に換えようと頑張っていた、愚かな挑戦だったというか。
昭和の頃との、創作の大きな境目ではある、昭和のそれは「マジンガーZは自衛隊の比喩である」と言う位の、感覚の「真剣さ」が有った、訳で。ただ、”そこ”に対して軽い意識で大金を投入した結果、というのがグレートマジンガーでありゼビウス、というニュアンスでは、ある。「もしアメリカ軍が攻めてきたら?」も、「主人公は一機で敵基地に挑む!」も、どっちも真剣さは、無い。「冗談だよ」そうだろう?巨大ロボットなんて造れないんだし。ともかく”この”意識はその後、大きな損害ばかりを出して次第に歪んでいく事に成った、という気はするが。
そこは、手塚治虫氏の残した深刻な欠落だった、というべきだろうか。「漫画は、どんな作品描いたって良いんだ!」漫画なんだから、だが。科学者が原爆を後に開発する事になる数式も、その後に真珠湾攻撃が行われる計画書も、共に紙の上に描かれた物ではあり。「危険性」みたいな物に対して対処は?までは、彼は置いて行かなかった、というのは深刻な問題の始まり、だったろうか?
ともかく「主人公を助ける」をメインテーマにしても、その結果として現れる物理的な帰結は?というのは、割と面倒で出来れば、最初から決めておいた方が良い話、だったりはする訳だけども。
ちょうどそう言えば、「ウイングマン」も、そう言う展開に成っていた、だろうか…。
従か伴か、という、そう言う境目は、果たしてどう処理されたのだったか、自分も忘れてしまった。
それはちょっと、実は社会主義的なニュアンスだが「妻は一人、嫁はたくさん」と言う打開も無い、事もない。等価、対等、というポジションの正妻と、従者、というポジションの嫁複数と、という…そう言う絵も、まあある。兎も角、先人の道をただトレースするだけで成功者、というのはまあ、あまりにも虫が良い話なのは間違いない訳で。”そこ”に答えが無いなら自力で開拓するしかないしかし、平成の作家?は多く「冗談だよ」から脱出できないまま、自分の前にその冗談が現実として現れて、そして壊れていった、みたいな感じなのだろうか。
まあ、世界の平和を脅かす敵との戦いを前に、パーティは恋愛事情で崩壊の危機、というのもなんとも締まらない話ではある。
果たして平成の「ウイングマン」はどうなるのか?は、多少は今後の境目には成るのだろうか。
不意に気づいてしまう?と、何とも締まらない話ではある。英雄の如くだった筈のそれは、しかし盗品か借り物かで。本人は所詮でしかない、というオチを前に、虚構に恋した女性らは人生の選択を迫られている…そんな。
”それ”が自分の話ではない、と。果たして何故言えるのか。