映画「ガンダムSEEDフリーダム」、封切りから5日目、話題は今も続いている。
ちょっと自分のスタンス的に、微妙な感覚でそれでも、プラモは買ったりした。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「推し」と言う言葉は令和の異質とエポック、だろうか。
無印フリーダムとプロヴィデンス、という所が、些細なプライドではある。
自分の状況をまだ、明確には解ってない把握にはある。ともかく以前から自分はガンダムSEEDにはほぼ全否定、というか…「売れるモノが必要な時にこんな内容で良いと思ってんのか」的なスタンスで、「ミラースタイル」と言うMSとキャラだけ使う別ネタを書いてたりして?立ち位置的にはもろアンチではある、訳だが。しかしその後、公式で増えていくMS群に微妙に匙を投げたりしてて?何かの不足か切り捨て、そう言う事態にあった…かもしれないのはまあ、ちょっとある。特にアストレイ関係は、ほぼ「別の世界の話」にしてる現実はあり、今の公式がどうなっているか?も、まあほぼ把握してない。実際にはコーディネーター計画は破綻しており、接種後約0.3%近くが人格破綻を起こして病院送りに成っていた、という事実を隠す為に起こされた「血のバレンタイン」そしてザフトの武力侵攻は、結局は首謀者のクーデターとそしてその鎮圧という結果を持って終幕する、というミラースタイル側のオチは、今も記憶に残る自身の成果とは成っている、が。
ちょっと待てこれ二次創作だよね?
「ミラースタイル」と言う名を冠してはいても、やっぱりそう言う物である事はまあ…間違いも無く。更に、信仰「大衆は神である」のなら、一応の”人気作”であるガンダムSEEDに対しての態度は正しいのか?も、まあ混沌とはしている。「カウンタは制御されているんだ!」は全てをひっくり返す虚言ではある訳だがしかし。”今”のSEEDフリーダムのそれは創られた物か?という、それはかなり、深刻に疑問だ。
ちょうど、「原作者が原作改変に怒った末に自殺してしまった」と言う、そんな事態が有った後だけに、帰結は帰結だろうか?それはちょっと考えたりはしている。状況の問題だ、象徴的?だが本編の中でも「これ以上攻めてくるなら、あなた方の姫を殺すぞ?」と、”主人公側が”脅すシーンがガンダムSEEDの最初の頃にあって。”これ”がまあ、自分にとっての強迫にも成っていた、のが”当時の”理解ではある。昔にしろ、意識的には何かの人質を取られている、感覚にはあってそれは、実際は今もそんなに変わってないのだ。時々PCやスマホがハングアップしたり、何かの特権?が何かの意図を持って時代を膠着させている、そんな意識の中、締め出されたまま一人、こういうのを続ける事には成った訳だが。
情勢は幾つかある、ティターンズとエゥーゴ、の対立みたいな中で、”どっちか”の電池に成っている、感じのまま、まあともかく信仰が試されるかのようにか、理不尽は続いている訳だが。
「大衆は神である」その神は、状況的にはどういう事態に成っているのか?ではある。
把握はそれほど変わっていない、金銭的な問題から否定側は”ここ”のネタを直接は使えず、肯定側はしかし、否定側の敷いた「隔離」から出る事が出来ない。理解では肯定側に居るがしかし、”それ”とのコンタクトも直接は出来ない訳で、しかも。自分の書いた物が向こうでどう使われてるか?もほぼ解ってない状態である…一応、一つの理解的には?「鉄血のオルフェンズ」は、自身の創案した「ドルメンガンダム」を足場にして生まれた作品だ、とは言うが…しかし。明確ではなく、結果が全然違う?という話でもあり、結果もちょっと微妙だったのはまあ、間違いなく。その続編と言うのも…まあちょっと、個人的にはノリの悪さが如何ともしがたい。
その中で、是非が混乱しているのもまあ、間違いない現実、だろうか。
そもそも「ガンダムの原作者の意向は、何処まで尊重されているのか?」そんな状況ではある。果たして原作重視、鉄血のオルフェンズが勇者冒険ガンダムだったらもっと評価されたのか?とか、それも不透明だ。最終的には「売れたか否か」しか、判断する境目を持てない結果はある。ともかく?映画「ガンダムSEEDフリーダム」それは、今もって好評という結果は続いている…20年と言う月日をそれでも耐えた、何かの決意かの勝利、だろうか。
「セクシーな田中さん」は、制作側に文句を言い、ラスト2話は原作者自らが脚本を手掛ける、という状況だったなのに。作者は何故か自殺してしまった。個人創作には限度があり、その先には虹の橋がある。しかし今の「独裁創作は売れない」と言う結果への否定は、不意に固執とプライドの先に現れるのかも。
古い境目は今も、犠牲者を飲み込み続けている。