それでも何かの「ケリ」の様なものは、ついたのだろうか。
相変わらず意識的な騒乱は、何かの理不尽と同じ話を背にして、そこにあったりする。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「美味しい」と言う感覚は、意外に主観的だったりはする。
以前と変わったのは、「利益性を確保する手段がある」事、ではある。ただもちろんか、自分の視点では存在しないが。だから今も、この辺は自分では断言は出来ない。ともかく「じゃあどうやってこの借金返せばいいんです?」それは常にか、混乱の深部に潜んでいる声ではある。作品を作った、売れなかった、多くの負債が発生した、それを打開する為に、また借金をして…そんなループに入っても、誰も「どうすれば良い?」を言えない内に、それは物理的に返済不可能な額に至ってしまった、のが平成という時代だった、が。
ともかく「破産してください」貴方は解雇されます、貴方の会社は人手に渡りました。そこは、下限にはなった…そう言う事だろうか。
上のループに入った奴に、貸し続けた側にも責任はある、故にそこで発生した損失は諦めるしかない。喪失した分はまた、今回のそれを教訓にして、何処かで”創る”しかない。今は一応、それが可能な状況?は、理屈の上ではある。
故に、失敗した相手から回収できない、というそれは、問題には成らない。
阪神が優勝した、というそれに、何かの意味はあった、というのはあるだろうか。これだけスポーツとして広まっている「野球」と言う文化ではある、何かの決定権を持っている、それは有るのかもしれない。道理は東京よりも大阪のそれが優先された、その時、変わっていく話、それがある。
…グラディウスとゼビウスの戦いに、一つの決着がついた、そう言う感じ?
AはBからゲーム機を100万円で購入した。この時、Bは100万円を得たがAは失っている。しかしAはその後、そのゲーム機を稼働させる事で、約3か月で100万円を回収、現状もまだインカムは続いている。この話はしかし、Aが転売などの手段を持たない場合、Aはただ100万円を喪失しただけ?という理解と、「それは違う」と言う感覚と。
「面白い」のなら、ユーザーは損をした、という気に成らない。その時、そこにはその金額が”発生”しているのだ。
無限に続く様な「それはおかしい」と言う、その果てに。答えには至ったのか?ではある。
一般論、下層の感覚では本当にどうでもいい話だ。「面白い」物が売れる、それは当然の話では。「では何故私の作品は売れないのか?」上から目線のムカつく連中に一泡吹かせる、そんな痛快な主人公の話が何故ダメか?「めんどくせぇ」問いと、その結末と。「お前は馬鹿だから教えてやる」と言うその相手との溝は、善悪を逆にしてそこにはある訳だが。
そして最後にあるのは「馬鹿な事考えてないで仕事しなさい」それに勝てない理不尽ではある訳だが。
理不尽さは残る、だろうか。結局彼らはその、自身の目指した道は或いは閉ざされ、その後は最も忌避していた行為をせねば成らなくなる、訳で。上から目線のムカつく連中には溜飲の下がる話だ、としても。結局、「先生」らはその相手に理解させる事は出来なかった、それは結果としてある。
断絶は残って居る、かもしれない。
しかし「先生」側のその先は、ほぼ「洗脳」それに近い話にはなる。
人の限界、だろうか。