屁理屈は続く。
ゲームセンターのゲームに100円を入れて、結果で”100円以上の物”が手に入るなら、それを売れば、投資したお金以上の利益は出る、訳だ。その中から?また、100円を投入して、ゲームを遊べばいい。生活費を考えても、それはループし、状況を維持し続ける事が出来る。
「と言うのが良いゲーム」では、ある。
別にゲームだけではなく、音楽、小説その他もろもろ、創作への基本的な需要と要求。
”そう言うの”を創らないと?ゲームセンターとしても、維持は出来ない訳で。
「得られた物を売る」と言うそれは、色々な絵はある。イラストのネタにするなり、基本的には「仕事の活力」その意味、”そう言う物”ではあろうか?それを職場で「消費」する事で、得られる給与にフィードバックしていく訳だが。「自信」と言うのは重要な価値だ、「自分は出来る」やった事がある、結構上手い、そう言うのは、何だか自分を支えてくれる、自分の必要性を自分で理解出来る、と言うべきか。漫画やアニメの様な創作とは異なる点だ、ゲームは「自分で実際に実証する」という部分で、パーソナルではありつつ、フィードバック効果は他のメディアよりも数段、高い。
需要はある。
ただ、それだけに、難しさはあって。
「それ、貴方の主観ですよね?」
努力すれば叶わない夢は無い、とか、それは或いは妄想か希望に過ぎないのでは。
そう言うネタで創ると、あまりプレイヤーは「面白い」とは思わない。それよりは、むしろ失敗の体験例を語った方がウケるくらい。だから、か?初期のテレビゲーム、それは結局の所、「そのゲームを創れるスキルを身に付けるまで」の、多くは”そう言う体験記”だったりするのが、現実ではある。
それは、そんなにいらない。
決定版が「グラディウス」だが、それも結論で言えば目的には到達しなくなっている。
時代が変わったから、だが。
だからこそ、その中でスーパーマリオブラザーズだとか、一般人向けの「格言」で描かれた作品が、名作と言う流れには成っていく訳だけども。朝、会社に出向く、それは社長と言うか、”それ”により家族と引き離される光景だ。何としても家族と再会せねば!しかしそれに必要なのは、攻撃性ではなく回避力だったりはする。お金ももちろん必要だ、ともかく社長から要求された仕事を熟さねば、家には帰れない、「普通」は。
とは言え、こういうネタを、「若い奴」に求める方が無理がある訳だが。
昭和の頃は、「昭和天皇」と言う王の権威が居て、”それ”による供給で、日本は随分潤った。ともかく今、”それ”と同じ形を形成出来ないと、期待される「価値」はそこに生成出来ない。そして生成しない限りは売れない、訳だがしかし。
この時形成される「価値」は、多くが「独裁者」には”苦痛な何か”でしかない。もっと自由を!その先に有るのはでも、「楽しかったですか?」それは良かった、お代はこれだけです、そんな笑顔だけだ。
自分は今も、この壁を超えられてはいない。
目的を考えたら?ここを超える必要は無い、それも大きい。
ただ、昭和の?多くの創作者はこの壁を超えている。もちろんそれは、飯塚幸三氏の様にフレンチを食べるために母子2人を生贄に轢き殺す、という、マクロではそんな絵として、だ。今までは、”これ”が問題視される事は少なかった、創作の独裁性の暴力と、末端の犠牲者、その因果関係を繋げる事が難しかったから、だが。今はインターネットが有り…それは即時的な「因果」として、見える様には成って来ていて。
”それ”でも前に進む時、そこに有るのは過失の罠、だ。
そしてそれは、或いは遠からず、自身へと呪いを残す事には成る。
”これ”が出た時点で、止まるべきなのだけど。
それでもそれが「余所の話」である限り、過剰な干渉は内政干渉にはなる。
気づく時には手遅れ、それは良くある話。
「ここ」の言う事は今は多く、創作者には「つまり、夢を諦めろと言う事か?」それでしかない。
諦めるべきか否か、そこはまだ混沌とはしている。
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