何故か、有り触れた誤認だ。
「誰かが、自身らに都合の悪い創作を、どうにかして売れなくしている」
カウンタ制御が、相応の”それ”に成り得る現実は…有って。だから、「出来ない」それは、言えない。そして?もしそうなら、自分の創作が売れない理由は全て説明できる、”誰か”が、自分のそれを売れなくしているのだ、本当なら。
実感的にも、ここには相応の、道理?説得力、そう言うのは、ある。
それへの疑念が残る限りは、まだ、独裁創作への執着、それは消えないのかも。
自分の創作が、売れた事が無い、訳では無い。
以前にも掲載したが、創ったゲームが雑誌掲載されグランプリ入選、また幾つかの作品が入選し、数万円の賞金、そう言う事は、ある。
「認められた事はある」訳だ。
その上で現状、というそこには、不明瞭な何かはある、訳だが。
平成に入っての、その敵意の向く先を見ていく時、”ここ”には集中はする。
「認められた」奴と、そうでない奴の境目、ともかく後者は前者へ否定的な視線を向けている、敵意でさえ有る。
理由は、経緯の中で判明はしつつある。まず、昭和天皇は「王の権威」だった。物理法則と最も合致する一人。物理法則が一つしかない時、それに合致する個性、それも一人しか居ない。”それ”の死去に伴い、「認証」それが弱まった。残っていた昭和天皇の影響は、数年で消える、「認められた」のは、その間の出来事ではある。そして、次の王の権威が求められ、”それ”は、その「認められない人々」その中にはもちろん居なかった。
最終的には結局、昭和天皇の死後にか、その影響範囲で「認められたモノ」その中の誰か、という事には成る訳だが、理解では”それ”が「ここ」に来ていた。
”ここ”の理解では、だ。それ以降、”ここ”は隠蔽され、秘匿される事になる。”ここ”を「認めない」という状況は、不意に発生してしまう訳だがしかし。問題は、「だったら、自力で売れる物を創って売れば良いじゃないか」これが出来なかった事、だ。
解った事は、創作とは、「まず問題ないオーダーが無いのなら、独裁者の立候補に過ぎない」という、結果ではある。
”それ”は例え王の権威であろうと、だ。そして、その「問題ないオーダー」を誰が出すのか?と言うと、「王の権威」だった、昭和の頃は。
昭和の名作として残る、恐らくその全てが、”そうやって”誕生していた。
という結果として?”ここ”の創作が売れない?それには、”理由”は言える。
迂闊に認めれば、それは昭和の「悪夢」その再来であり、スターウォーズの皇帝を否定するなら、それの発露は認められない。一人で創る限り、それは利益性には届かない。
”ここ”もこの時、出口は見えにくい訳だが。外もまた、じり貧ではある。”ここ”のアイディア、意向、それを下敷きにしない限りは、利益性は無い。創作が売れないと?経済は壊滅的に悪化していく、平成の頃の様に。
今もまだ妥協点は見いだせず、結局は今の、新型コロナウイルス、その発生を招いた。
不幸と言うか、シンクロしていく感覚はある。”認めた”ら、何もかも終わりだ、目指した、理想とする「世界」は滅ぶ。しかし、このままでは。
ともかくまだ、飯塚幸三氏は、「私はアクセルを踏んでいない」なのに車が勝手に暴走したんだ!それを言い続けては居る。そして、”それ”を言い張る事は出来る。そして、可能性が無い、とも言えない。自身を排除したいと思うなら?それは方法論の一つだ。誰かが。
可能性が0でも、それは、問題に成らないのでは。
「独裁創作が認められる世界を!」
それは、今も、何かの甘美な理想として、前線を鼓舞し続けている。
特攻をも選択肢にして。
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