自分の感覚、理解でも、0と∞はイコール、という事にはしている、0と±0、という関係。
ただ、明確には「無い」と「有る」と言う、その絶対的な差、そう言うのは、ある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「妨げるモノ」は、或いはこんなイメージで見ているのかもしれない。
「大衆は神である」と言う思想上、「価値」それは「人々の同意の束」ではあって。つまり一千万円の価値、というのは一千万人の同意がそのコンテンツにある、という事ではある。しかし?これを今度、どうやって換金するか?という点で、逆の「価値」が壁になる、それを換金したら著しく不平等が発生する、それは認められない。それも理由の一つとして結果、換金は見送られる場合が多々ある。「かわいい」それには万人共有の同意が得られるが、その時、絵画1枚が単純に数億円になる場合もある訳だ、それは良くない、という対抗。
絵画とか、創作は大概は”これ”で換金が出来なくなる、場合が殆どであって。神の否定であり。
信仰上、話はこれで終わりなのだがしかし。この信仰で無い場合、そこには別の反応はある、訳だ。お金が必要でそこには大量の(というには多すぎる)お金がある、これを換金できれば世界は、それを何故妨げる?その時、無限に対して反論者はむしろ少数派、ではある。
カルトの王は大概は、無限を目指してこの”0”に囚われ、それを目指しそして人々を巻き込んでいく訳で。
”ここ”に囚われるまでには、殆ど犯罪と言って良い過失の累積は有るのかもしれない。結果、通常の「価値」には戻れなくなる、価値がある=多くの人々の目がある、という事だ。それに晒される時、必然と過去の過失も暴露されていく事に成る、そう成ったら。そのまま、逃げる様に”それ”が無い所へ踏み込んでいく、その時は或いはもう戻れなくなっている、そう言う感じかもしれない。良くも悪くも?今までは”それ”でも「その先」が有ったのだ、世界には「王の権威」と言う脅威が居たのである、が。”そこ”に今は、「大賀さん」紛争解決機構、それは置いてあって。
期待される脅威、自由を妨げる横暴、人々を救える物を換金させない邪、それは、居ない。
これもまた、今もってなお期待値、ではある。先に話題にした様に(0±0)これが思想上の”神”ではありこれに何かの個性を見る事は難しい、とは思うがそれも人間の判断だ。今のところは「無い」が、0を信仰する人々には、違う物が見えているかもしれない。そして多く、”そこ”からは理解できる声も聞こえてくる、自身を或いは侮蔑し卑下し、そして要求するそれだ。下手か?遊んでんな、真面目に働け。ただ或いはそれは、自身の過去の過失、その一部かも知れない。
声は真理だが、無理を言う話でもある。