自身の内輪というのは何処までか?は深刻な問いには成る。
そしてしかし、問題はたかがゲームでさえそれは、意識する事に成る事、だ。
※「pixAI」にて、タイトルを英語にGoogle翻訳してプロンプトに入力して出力。
難民問題も深刻ではあるが実際には基本、追い返す、のがまあ普通・・・。
「大衆は神である」と言う理解では、しかし逆に「人を救うのは人である」のも結論には成る。誰かが「神様助けて」を祈祷する時、”それ”は領域内の「誰か」に伝わり、それによって「幸運」を形成され相手に送られる。その結果で相手が救われる、なりすると感謝はもちろんあり、結果で救済した「誰か」もそれは喜びに成る。創作の「面白い」は基本このプロセスで発生し、逆に”それ”は「価値」必要な物、それとして認知され、換金対象になる、訳だが。
問題はその「領域」と言うのが最終的には「宗教」それになる事、だろうか。一つの神を介して”これ”は行われる時、他の宗派の祈祷は対象外かむしろ邪魔、表現的には悪霊にさえなる、訳だ。価値を高めようとするなら?より多くの人々の支持が必要。その時、自分の領域の外にこそ市場は広がっているが、それは多く、他の宗教の縄張りである。
かくして宗教戦争は今日に至る迄続いている、深刻な問題ではある訳で。
ともかくか、”これ”を考える際に、返答として妥当?なのが「やってみた」出来た、そう言う質量では、ある。物語だけでは「ってなった方が良い」「そうだね」の集合でしかなく、期待か支持それでしかない、実践が伴ってない為に、支持が集まっても具現化し得ない場合がまあ、ある。その際に?「やってみた」と言う体感はよりダイレクトに相手への救済として大きい訳だ。山登りなどの困難に、人は何故?ではある。その成功は救済の希望に対してより必要な物を提供し得る。その時、そこにはより大きな感謝、そう言うのが有る訳で。
で、こういう質量をより効率的に発生させる、のがいわゆる「室内ゲーム」或いは「テレビゲーム」である、訳で。需要その理由ではあり、若い頃は特にか、可能な限り”結果”を集めたいのも衝動、そう言う事はある。それによって当人の価値も、或いは幸運も膨らんでいく、世の中はギブ&テイクで成り立っているから、ではあるが。
問題はここで、「そのゲームの思想が要求する範囲が、自分の宗派に抵触している場合」では、ある。
自分が所属する宗派、領域?だけなら、如何なる困難も、というのはあるだろうしかし。感覚が広がってくるとその領域は、今は特にインターネットを介してワールドワイドにさえ広がってしまう。「他の宗派に抵触しやすくなる」訳だ。”そこ”に発生するのは逆に「内輪からの否定」には成る。内輪以外を救済する、のも否定感が有るのに、或いは敵対さえする宗派の存在を救済するのか?作品は大上段に構える場合が多い、一憶二億の売り上げは最低ラインである。しかしこの数値は既に日本の総人口を超えているのだ。そこには必然的に、「他の、或いは敵対する宗派」それさえも視野範囲に入ってしまう。そしてもちろん、作品その物は?”視野範囲全ての救済”それをプレイヤーに要求する事には成って。
「難しい」と言う、一つの絵ではある。
結局、上の方に成るにつれ、昔なら出来た事は出来なくなっていく、訳だが。
「人類は皆、戦争などせず穏やかに暮らし、そして発展していくべきだ」理想は、言い方では簡単ではある。それを作品に投影するのも困難はさほどないかもしれない。しかし実際にはその時、現実の困難さは否定感と共にそこにある。そして?”それ”を越える道をゲームとして再現する時、何だか時々、それは異様に、場合によっては物理的に難しい。
何はともあれ、歳をとると言い訳も、技巧的には成っていくモノなのだった。
ちょっとこれ以上進めない…。