カメとウサギの競争で、カメが勝った、という絵は昔からある話だが。
ただその後、ウサギがその結果を納得するか?には、深刻な問題は残ったりしているのでは。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
その世界は美しい女神に支配されているが、それはちょっと偏ってる?
ストリードの連携と、アートスケール、M式特殊融資によって創作の利益性はかなり堅牢な物に成った、ほぼ永久機関でさえある。創作者は企画を立て(出来ればその時ストリード、”有効な企画原案”を自身の外部から求めた方が良い)、それを該当する銀行の窓口に持ち込む。銀行はそこで「アートスケール」を適用してその企画を査定、十分な数値が出ればOKを出す、「この初期構想通りに完成したら融資する」その証書を発行。企画者はその証書を手に会社を説得するか、別の金融機関、或いは投資先に働きかけて完成までの資金を調達する。最終的に「初期構想通りに」創れた時点で、その後に関わらず融資は行われ、ともかく製作者らに制作資金は供給、ともかく借り入れは返済しうる。一応、「アートスケール」での高得点は、その先の利益性に十二分な安定を齎す、時。その先には、製作者への十二分な対価の供給は成される事になって。”そこ”に至る時、損失を出している所、それは存在しない事に。「お金は増えている」のだ、創作の強みではあり。”これ”を繰り返す時、創作者が創作で利益を得たいと願う時、お金は”生産”され続ける事にはなる。
これは社会への内需拡大を可能にし得る、創作者が「働く」限り全体の経済的問題は発生し得ない、位の画期的な状況ではある。理屈では、結果は既に出ている、今までの?様にか、一か八かの博打をする、感じには成らない。その先で「どれが一番いい?」とか「私の作品を売れなくしているそれは誰だ?!」も、無い。損失は、期待する絵を期待される様に描けなかった、そこにしかない訳だが。
ただその時、「という訳で、”これ以外”を追求しちゃった人々は、もういらないから」それは、或いは結果としてある、その人々はそれまでの私的な追及か労苦、それを回収、換金かする先はもうない、訳だ。「次の時代」と言う結果は既に出ている、が。その喪失を我慢できないそう言うのは、まあある。ダークソウル3をクリアした!としても、”求める結果”は第3ボスを倒した時点で達成していた、後の労苦は徒労であり換金性は無い、みたいな話。もちろん?あなたがその無駄を浪費している次元の先では、その徒労を消費して少なくともあなたの求める”何か”は生産されている、のだ。ネット動画で面白い動画が有る等、なんやかんや利益には成っている…だろうしかし。「無駄な事をした」みたいなそれは、ちょっと残って居る。
「甲子園に出場する!」様な願いも、大概は果たせず終わる、あの労苦は何の為に?それは多少、深刻さを持って残ったりする場合はある…それが今、ちょっと深刻に成っている、のかも。
ともかく個人的に良いと思う物を追及しても、望む結果には成らないのだ。社会が必要とするものを創らねば少なくとも換金性は無い。個人の主観は限界がある、多くは他者のそれと衝突し、戦争になる。”それ”を制した先に!それは、実際には存在しない、”不満を言う客”まで殺してしまう時、残って居るのは自分だけではある。ダークソウル3の「ファランの城塞」その乱戦は、そんな比喩、だろうか。そして?あなたは、ともかく多くのプレイヤーは最後に残った一つに切り殺されて終わるのだった。
そう言う意味では、「客を殺してはいけません」まあ、幸いかゲームではあるのだけど。
青写真は出来ていて、結果もかなり出ている状況だ、しかし。「という訳で仕事してください」相変わらず、”これ”は希望には満ちていない要求では、有る。
青写真の栄華とは異なり、現実はどうもまだ薄暗い。