あげちうのブロマガ

無理をしないという失望

「安心感」には、なるのだろうか?

「職能ランク制度」は、普通に回す限り破綻する事は、ほぼ無い、だろう。

なんとなく不意に、「黄昏の狩人」その”マスター”の権利、が帰ってきた?感じもしない事もない、「黄昏の狩人」その古い版に有った理解の不足かを「治した」という事になった、のか。今まで一種、不当占拠していた感覚それは、消し炭に成ってしまった。物語的に、だ。物語のプロットは考えた事はある。何かの固執から、変異種を殺す事に固執していく女性は、主人公らを追跡していく先で、やがて自身が変異種として変異してしまい、そのまま自分を殺す。今の「黄昏の狩人」の中では、民主主義は最終的には”神”だ、その神判として、存在は否定された、感じ。

一応、少し前に話題にした「機動戦士ガンダム 水星の魔女」のOP曲「祝福」の、そこに少し残る執着…の帰結、だろうか。TRPGでも多くある問題、どうしても物語を描いたマスターかが、その自身の理想的展開にしたがって、プレイヤーを単なる狂言回しにしていく、という奴。”それ”を最終的には「現実にも適用しようとする」その独裁性は一応は、ここは潰えた、感じはある。

もちろん、キャラクター的には「死んだ」としても、プレイヤーその物が死んだ訳ではない、筈だが。ゲーム的には再び別のキャラを創れば参加できる、様なそれはでも、その時の”感覚”には、「実際に死んでない」事は、不足の残る結果だった、というのは或いは、有る。

この、「消し炭に成ってしまった」感覚は、何かの因果応報的な”それ”に感じない事も、無い。前の「シン・ゴジラ」とその後にあった「新宿アート展火災」の悲劇、だ。「皇帝創作」大衆の人気作に対して「こう描くべきだ」的な、神を(大衆の要求を)超えた理想をそのコンテンツに要求する、先で、それは過失を発生させた、という理解。実際には、その「シン・ゴジラ」その物が殺した訳じゃない、しかし。この方法論が許容される先で、「先生のやっている事」を真似た先では、本当に子ども毎、そのジャングルジムを燃やしてしまった。「安全な炎」を再現する筈が、要求したリアリティは「本当に燃えてしまった」訳で。

良くも悪くも、この数か月後か、増尾昭一、という「エヴァンゲリオンの作者」自分はそう認識してる人は亡くなっている。今のそれは、その人が残していた無念のようなモノ、だろうか。応報の様に、願いは燃えて消えた。

とは、思いたい。

「物語って、何の意味があるんです?」創作を創っていると、良くある問い、だ。この結果、ルートの一つに「現実を変えていく力として」という需要?感覚、それがあって。となると結果、その物語は現実に「期待されるフィードバック」を起こさねば価値がない、という事になる、訳だ。しかし?もちろんその感覚の先にあるのは「無理だ」その現実的な結果、ではあり…そうするとまあ、最後にハッピーエンド、というオチが無くなってしまう。テレビゲームで言えば、ラスボスと対峙するが倒せなかった、という話だ、ゲームならリトライがあるにしろ、特に商業作品にそれは、無い。

結果、その事態を避けようとすれば、「最初にプロットを創っておく」という当然の帰結は有る、訳だがしかし。逆にそれが枷になる…?それもまた、真実だろうか。「漫画だから」中々今は、今も言い難い?話だ。この先には「異世界理論」があり、「”向こうの異世界”に良い結果を齎す(物語を創る)事が、現実への感謝と喜びとなり、或いは相手の返礼を期待し得る」という理屈がある。ともかく「良い結果」に至らねばならない、が。それはそれで、「有りえない」と、人々が感じたらそれは、それでなんちゃらではある訳で。

単に強度計算を間違えた、だけか、或いは。一歩一歩、「期待」を積み上げていく先にあるそれは、果たして。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る