0を1に変える方法は有るか?というと、「ある」とは、ここでは言う。
ただ、それはあくまでも信仰の問題で、そして神学的な感覚でもあって。
本日のダイス
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文学的な感覚で言うと、「それは無い」と言うそこに、比する「徒労」無意味、その投入によって、それが具現化する芽を出す場合が、ある。いうと0に0を掛けると?「1に成る場合がある」訳で。ただ?絶対じゃない、数学の公式の様には、安定した原理とは言えない、それが今の理解。
要するに、「神様に聞くしかない」訳だ、神が「有ってもいい」そういう時?それは芽を出す事が。
すると?「神は何処にいるんです?」そう言う事になって、その先は今も、ちょっと混沌としている。
「大衆は神である」と言う視点では、そこは正に「創作」その意義、には成る。神の上に労苦を費やし描く、そこには或いは願いがある、”それ”を見た”神”が、「大衆」が、それを「有る」或いは必要、と思えれば?そこに対しての可能性が現実に発生していく、事には成る。その内容によって、その価値は決まってくる、むしろマイナスになる場合の方が実際は多い、新しいというのはやっぱりちょっと難しいし、大概は横紙破りだ、「それはこういう理由で無理です」そんな先人の経験則で禁止されてるだけに過ぎなかったりする。その結果か、今、「独裁創作」それは、ほぼ全面的に換金禁止になってしまっている。
「独裁者の横暴を抑止する方法はないのか?」
その時、「独裁創作を換金しない」それは、最たる術だったりした訳だ。
ただ、換金に応じちゃってた時代がやっぱりあって、その前は、独裁者の横暴、それは問題視されてなかった。現状でも解りやすい例では「ビートたけし」氏の、あの時代ではある。今でも衝動か、望郷としてはあるだろう、「あの頃みたいに、面白い位に大漁!って感じには成らないのか」実際にはそれをやると、「大して能力に差はない他の芸人」らは、パイを失い生活に困窮する事には成る。一強皆弱、勝つのは一人、他は全て引き立て役か、餌の様な物でしかない。
”今”これを問うのはナンセンスになった、それは無理だ、というのはマクロでみれば好ましい変化なのだが。
ともかく結果、当時にしろ、最下層は酷い状態だった、そう言うのは有るとは思う。
状況そのものは変わってない?のは、ちょっと懸念される部分ではあって。未だにビートたけし氏は前に居るし、「独裁創作は売れない」それは、特にテレビでは語られる話じゃない。世界は今も、昭和の残照を見ているのだ。残って居る問題があるという事か、ともかくそこにぼんやり照らされる物を、今も捨てられてない。
そして今、お金持ちが独裁創作を換金しよう、という感覚を持つ時に、そこには横暴さ、それもまた目を開けては居るという矛盾も。テレビで栄光を享受する人を、最下層の同好らは物憂げに眺めつつ、自身にとっての徒労に身を浸し続けている。その人は拾われたが自分らは捨てられた、この狭間に有る物は一体、なんだ?
世界には個性があり、先の話、「それは無い」を「産む」か否かはその個性によって決まる。”現実”もまた同じで、そしてつまりか、そう言うのが残っちゃう?のは、この現実の個性、そういう物と言う視点もある。なんにせよ、今も、或いは現実に有ったろう、「ひどいAVに出ざるを得なくなった女優が、その後に自殺してる」と言う事例は今も、底で呪いを残している様な感じなのだが。
AVその物が禁止になった、というそれを持ってしても、消えない物はある。
それを齎した「人間の屑」或いは人間じゃ無い奴、それは今も、納得し得る罰則の元にはない。該当し得る罰というのが思いつかないという疑問もある、再発防止か、それとも何の為に罰を与えるのか?その相手に「更生の可能性、それは無い」のだ、彼らにとっては罰も或いは「保釈金の額」でしかない。猛獣でしかない存在を何とかしようとした、そんな結果でしかないなら?或いは殺された側の過失、そんな言い方さえ。
「なんでそんな事が起きたのか?」それは、相変わらず謎のまま、ではある。