報道を鵜呑みに出来ない現状、というのはやっぱりある。
その中で「間違えない」選択それは、自身の推測によるしかない訳だが。
本日のダイス
白:6,4:10
黒:4,3:7
白10 6443
その時、NHKは多額の借金をしており、インターネットを前に消滅の危機に瀕していて、ともかく今は、安定した収入が必要だ、そんな状況にある…その人は、そんな事を言い出す場合もあり、是非は思う。
問題はどこでも、ヤクザの存在に関しても、最後はお金の問題になっていく、のだけど。
ちょっとした面倒、というと「紙芝居は今?」ではある。不意に、考察かの結果でNHKの奈落に「”神”が居ない」と言うそこには至った、のだが。つまり「判断する基準」を失っていて、最終的には前例踏襲でしか動いてない、そんな状態に対して。要求はし得る、何とか”解る”自己判断する基準はないのか?その先に、不意に「黄金バット」このコンテンツの存在がある。
何とか”これ”なら?NHKの「神」の座に収まる、感じ。
ただ同時に、当時のそのメイン媒体、「紙芝居」それが滅びゆく時に有ったろう同じ苦悩、問題、それも、そこに有ったりする訳だが。
時代に押され、自身の必要性、要求が薄れていく、のだ。
何とかする方法はないのか。
あの水木しげる氏も、最終的にはそれについてはどうにもしようがなかった様に、何かの無念と共にそれは、何かの混沌を抱えては居る。
NHKは或いは、消えゆく映画産業、”それ”の救済を目的の一つにしていた、感じはあって。
「紙芝居は?」その時、そう一言出る、そう言うのは、やっぱりあるのかもしれない。切り捨てられてしまった、そんな無念が、”神”の混沌として残って居る、そう言う感じだろうか。
テレビに飲み込まれてしまって、そして今は逆に、テレビの”神”として、無念を前に動けない。
当時、どうすれば、紙芝居を「残す」事が出来たのだろう?それは或いは、テレビの今後として、同じ壁に成っていく。
「語り」だけを、ラジオから流す、事は出来ただろうか?
そしてそれは、ラジオ事業の一つとして、そこから対価は出る時、子供らのお小遣いに依存しなくても良かった、かも。
…それなら、もっと派手な音声的な演出、そう言うのも出来たのだろうか。
今のところ、自分が考えるのはそのくらい、ではある。「黄金バット」と言うコンテンツは、当時の紙芝居を一つのブームにした、位のそれだったらしいが…それは当時、”その後”を創る事は出来なかった。この創案も、そんな一時的な物でしかないとして、意味は果たして、ではある。
当時、そうすれば良かった。だから今、こうする選択はある。
生き残る選択とは、果たして何処か。