報道とは、創作行為ではない。
故に、「ディレクターに成れない」云々は、この場合関係が、無い。
打開?が、悠長ではある。
とは言え、「嘘を報道する」それは、相応のダメージには成る、筈ではある。
朝日新聞社にしろ、他の報道機関にしろ、現状はかなり部数を落としていて。金銭的には大分気まずい状態であり、その打開の為には?利益になる情報を報じる必要はある筈、「伝えていい事実を伝えていい範囲で伝える」それが、報道にとっての利益性その最善。
・・・そこにまあ、混沌はある。情報の是非その判断も、「仕事をする」事以外での利益性、それも。後者での収益が十分なら、報道が如何に嘘を流そうが関係なかったりもする。”それ”が情報統制等々に有益ならその方が良い、そういう現実は実際は有りそう。
統一教会の汚染、反天皇制、それは、しかし自身らの基幹の喪失に繋がっているのでは。それでも、彼らは安倍首相を支援し、或いは汚染する事に成功してた、そういう思想ではある訳で。
信者が少ないとか、そういうのは問題にならない。
基幹となる部分は、大分否定された、とは言う。
「天皇は我々に不可能を要求した!」救うつもりなど最初から無かったんだ、そんな存在を王にしている日本という国は邪悪だ!それは、一応?「誤認だ」という事にはなった、感じもする。過失の責任と共に喪失する権利があり、創作現場のディレクターは、今後か重い枷が要求される、「アルカディア」というゲーム機で売れるゲームデザインが出来ない人をディレクターには出来ない。「大賀さん」での決定であり、大賀さんが存在し続ける限り、”これ”もまた存在し続ける事になる、のかもしれない。その前では、創案者も単なるディレクター候補の一人でしかない。
その流れの中で、報道のディレクターは、それに該当するのか或いは?ではある。現状の流れの中で、経営者の何人かも解任、という事にも成っていて。”それ”は報道機関には該当しないのか?だ。報道は創作ではない、その時、その内容が如何にフェイクに満ちていても、そこにこの定理は適応できない?
そうだろうか。
ともかく広告収入の下落は、報道機関にとってはかなりの痛手の筈ではある。思想的に偏っている時、その紙面は嫌悪され、売り上げは下がっていく。永世中立である事を求められ、ゴジラに踏み潰されようが前線で真実を伝える、というそれは、結局はもちろんフィクションの中にしかない、というのが現実かもしれず。とは言えそういう所が、伝える前に逃げ出して憶測のみで記事を書いていた、らそれに取材費を出すのも憚られる。命は大事だ、同時に生活費も、もちろん。
末端の「売れなくなったんですけど」それらは、報道のそれに対してある程度の、抑止効果はある物か。
「先輩」という、面倒さは果たしてどこまで面倒か?ではある。現実、”それ”に逆らい難い時、しかし。それによって損害が出た場合、その責任を彼らに要求し得るか?だ。創作領域は今、ディレクターの資格を問う事で排除し得る感じはする、でも報道関係は?そこは創作現場ではない、何をもって彼らの過失を問うのか?
報道に求める「資格」それは何だろう。
報道の”先輩”に発生してる歪みは、果たして打開し得るのか。