オモロかったあの頃!!

~ナニワ少年ヒストリー~   HN アキラ

鬼監督現る3(少年野球編)

2016-02-15 18:55:20 | スポーツ
鬼監督の恐怖に萎縮したチームはよく負けて
ビクトリー=勝利 のはずでしたが

他のチームからは

あいつら、負けトリーやんけ!!」

と言われる始末でした

S監督は、その後も少年だけではなく学童の子どもにも
容赦なく手をあげていたのですが

ついに、保護者からクレームが出て
辞任せざるをえなくなりました

一瞬、嬉しかった反面、何か物足りなくも思えました

次の監督はコーチが繰り上がりましたが
空気は緩んで試合にはやはり勝てませんでした・・・
その後、引退となりましたが

30歳になり、当時のチームメイトと飲みに行った際、
一人の友達が言ってました。

「最近、あのSのオッサンによう会うねん
今は仲ええねんでようしゃべるしな
今思うたらあのオッサン偉いで
俺らのために毎週土日潰して
練習に付き合ってくれて
中々あんなに一生懸命でけへんで
あのオッサンホンマ凄いわ」

と今になって、
みんな鬼監督の凄さに気づいたのでした
みんな、いい年齢になり結婚し子どもを持って
今だから理解できるものがあったのでした

ヤンチャなメンバーばかりだったあのチームは
やはりS監督だったからこそまとめることができたと思います

次回へ

鬼監督現る2(少年野球編)

2016-02-13 17:46:35 | スポーツ
鬼監督と異名をとるS監督は
試合中でも選手のプレーが気に入らないと容赦なく叩くので

いつ監督に怒られるんじゃないかと思うと
恐怖で萎縮したプレーになって、
鬼監督に激怒されるという悪循環でした。


結果、練習ではできていることが試合ではできない
という感じで試合では負け続けでした

僕らが中1の時には
中3にY兄弟という双子のヤンキー兄弟がいました
背が高くイケメンで、兄は芸能プロダクションに
2次審査まで合格したそうです。

兄はキャプテンで捕手。
弟はエースという主力選手でした。

ギャグは冴えてめちゃオモロくていかつい兄弟でしたが
学校ではナンバー3、4という顔役でした

たまに、僕ともう一人の友達がY兄弟の家まで
自転車で二人乗りで送るということがありましたが
家の前にはすでにY兄弟のツレのヤンキー軍団が
20人位集合しています

カラスマスクやウンコ座りでたむろしている真ん中を
「誰やねん?こいつ」という目で見られる中を
自転車でおくり届けるのです。

心臓バクバクでした


8月のある日、Y兄弟の兄が声を出さないという理由で
監督から金属バットでドツカレました

珍しく不快感をあらわにするY兄。
どうなるのか?」
ドキドキしていると金属バットでボコボコにされました

こんなん、やっとれんわ

と怒って帰って行きました

Y兄弟の兄はその後、4ヶ月練習には来ませんでしたが、
S監督が手を打ったのか再び来るようになりました。



不器用なS監督は口がうまくありませんでしたが
ある日、誰かのミスでいつもなら大暴れのはずが
その日に限って静かな口調で

いいか、よく聞けわしがお前らを叱るのは期待してるからや。
期待してなかったら放っとくぞ。こんなしんどいこと

と言いました。

いつもなら、血の雨が降るところを静かな口調だったので
余計に印象に残りました。

子どもを持ち、
年をとった今なら監督の言葉がよくわかります。
鬼監督も苦労しながら指導してたんやなと。


(次回へ続く)


鬼監督現る(少年野球編)

2016-02-13 16:53:39 | スポーツ
区のソフトボール大会に向けての
学校選抜に選ばれたメンバーのほとんどが
少年野球をしていました

連日の練習で野球の楽しさをより感じた僕は小6の終わりに
「○○ビクトリーという少年野球に友達と入ることにしました。

少年野球は小学生は学童チーム、中学生は少年チームに分けられていました。

そこで、総監督という立場のS監督に出会いました。
体は160センチぐらいと小柄ながら
パンチパーマにサングラスという強面スタイル

車は黒塗りのフルスモークのセドリックで
後部のガラスには関西一番星
というステッカーが貼られたヤンキー車でした

このチームに入ったことを初日に少し後悔したものでした

ある時、車に乗っている時にコーチが

Sさん、なんでゴルフしないのにクラブが置いてるの?」

と聞くと、

それは、暴走族と出会った時にシバくためや

とドスを聞かせて答えて、皆ア然としていました


性格はというと、風貌通りに短気で怒りっぽく
言葉よりも先に手が出ます

当時、少年野球をしている中学の先輩は
ヤンキー率(ほとんどリーゼント)が多く、
中学では顔役の人ばかりでした

当時は、野球やサッカーはほどんどヤンキーが中心の時代でした。

しかし、誰もS監督には逆らいません。

なにせ、エベッさん(戎神社の夜店)で
生意気なヤンキー中学生がS監督にシバかれる事件が多発していたので
地元中学のヤンキー中学生の間でS監督は超有名人でした

遊びでワンポイントの刺青シールを貼っていた友達が監督に見つかり
そんなしょうもないもん貼らんと学校で番を貼らんか~
と怒られていました。

まー中々今はお目にかかれない鬼監督でした

それが、鬼監督との出会いでした。
(次回へ続く)
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哀愁のタコ焼き!

2016-02-12 17:41:26 | 日記
小学生の頃、友達と遊んで
アイスクリームやキャンデーを買うのは普通の話ですが

僕らはお腹が減ると
立ち食いソバやお好み焼きの店に行ってました

今、小学生が友達同士で
立ち食いソバで食べてる姿あまり見ませんよね!

お好み焼きの店には
50円で目玉焼きが売っていて
店の中でソースをかけて食べていました!

時にはタコ焼きを食べましたが
当時、1個10円でした!
だいたい5個か10個で買っていましたが

ある日、お金が少なくて、でも食べたいと思い
オバチャンに「1個ちょうだい
と頼みました!

すると、オバチャンは新聞紙の端をビリっと破り
その上にタコ焼きを1個乗せて「ハイ
と出してきたのです。

思わず「えーっ?容れ物(舟と言われる容れ物)入れてくれへんの?」

と聞くと

当たり前や!こんなんで使ってたら商売あがったりや
とすごんできました!

そのあまりの気合いに思わず

ゴメンゴメン

と謝り、世の中の厳しさを教えられたのでした

念願のタコ焼き1個を口にいれようと持ち上げると

なんと…タコ焼きの裏側に新聞紙の文字が写っていたのです

なんとも寂しそうなタコ焼きを見ながら慎んで食べましたが
あの状態を表す言葉が「哀愁」だと分かったのは高校生の時でした!

哀愁のタコ焼き

あのホロ苦い味は生涯忘れないでしょう
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地区対抗ソフトボール大会2

2016-02-11 11:50:01 | 行事
この大会ではいずれも
たいした成績は残せませんでしたが

繋がりという最大の成果を残すことができました!!

打ち上げでは
当時流行ったジュリーこと沢田研二さんが歌った

ヒット曲カサブランカ・ダンディー

お酒を上空に向かって吹きつけるのを真似て
みんなで外で、炭酸を口に含み上空に吹きつけていました

普段は夜は遊べませんが、この打ち上げは
夜に行われるのでメッチャオモロイ思い出として残っています

6年最後の大会でリリーフした僕は剛速球で三振を取りまくり
学校選抜に選ばれ学校代表として
区の大会に選ばれました

そこで、4番ピッチャーでキャプテンを任されることになりました。

最後の公式戦ではパーフェクトなんかも達成して絶好調のまま
優勝目指してベスト4をかけた試合で
途中まで一点差で勝っていましたが

最後の最後、最終回に四球絡みでノーヒットで
同点にされた後、相手チームが
ツーアウトからバントするので
なんで、ツーアウトからバントするんや
と思いながら
その球をファーストに投げると、サヨナラ負けと言われました

意味がわからない
と思ってると、な・なんと、その前のプレーで
スクイズバントをファーストに投げると
ファーストの足が外れていたということに
気づいてませんでした

冷静さが完全に欠けていました

最悪のラストゲームで負けてしまいました

みんなの何とも言えない後味の悪い顔が忘れられません
今もあの光景が時々思い出されます。

人生は中々思い通りにはならないことを
痛感させられました


できるなら、あの日に帰って教えてあげたい
と思う今日この頃です

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