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第九章 結論と疑問
手段としての予防接種には、いくらかの積極的な長所はある。それは病気の発症に対して計画された防衛力を、多少の差はあるが、ある程度は与える。しかし、この防衛力は、接種直後の影響と深刻な長期にわたる災害の両面で、被接種者を危険に陥れるという犠牲を支払ってもたらされるのである。しかもその大きさはきわめてゆっくりと姿を現してくるので、気がつかれない。そして、この犠牲というコストは、あまりにも高すぎる。
そこで現実的な免疫獲得の手段として、十分な証明はないけれども、ホメオパシー医療を用いるという選択が出てくる。これは短期間だけならば、効果はあることが明らかである。また現在のワクチンとは違って、災害をもたらさないことも確かである。さらに全体的に見て、健康増進という戦略こそが、最も効果的な免疫獲得の方法であり、こうした面については今までにいくらか論じられてきている。
なのに断片的にしか触れていない多くの分野が残っている上に、注意する価値のあることは、調査されていないのである。
その一つに、予防接種計画の経済的な意味合いに対する疑問がある。それは、金もうけが基本的な動機づけになっている人たちに与えられている既得権益である。
もちろんこのよぅな企業(〈倫理的〉薬屋として知られている)が、故意に生命を危機に陥れているとか、自分たちの研究結果や開発事業を偽ることによって故意に子どもたちを危険にしているということをほのめかしているのではない。
しかし、人間の本性というのは、どんなものなのだろう?現実には、真実をごまかして合理化したり避けたりするたくさんのやり口がある。とくに膨大なお金と利権がかかっている場合には、何が真実であるかを見ようとしないし、認めようともしないだろう。
では、我々が、熟練した科学者とやり合おうとするときには、どうすればよいだろうか?
(科学)と呼ばれるものの実体は、周知のとおり、さまざまな解釈ができるというのが真実である。
一九六四年発行の予防接種礼賛の本の中で、ジョン・ロウアン・ウイルソン博士は「化学者や物理学者と比べて生物学研究者が頼りにしている基準は、ほとんど馬鹿げているほど厳密ではない。しかし、科学は相当の程度まで〈測定〉なのだから、使える正確な方法がないとすれば、利用できる最も良い方法で行わなければならないのだ」と述べている。
またウイルソン博士は、ジョナス・ソーク博士が直面しているポリオ「死菌」ウイルスワクチンの効果を評価するに際しての困難についても語っている。これに対して軍防蓬耶暫誌の編集者K・F・ウイリアムソンはウイ″ソン博士の声明にコメントを加え、容易に測定できないものを測定することは、〈馬鹿げた〉ほど厳密ではないと、次のような指摘をしている。
「今や、ウイルソン博士が言及した(厳密でない)測定法は、不幸にも、あらゆる面で本質的な問題となっている。だから、その重要性は直視され、評価されなければならないし、まして無知であったり狂信の波に押し流されてはならないのだ。というのは、ソークの免疫の測定法は馬鹿げているが、非常に変わりやすい値を真面目に平均したことと、六〇%が免疫を獲得したという結果を確固とした意味あるものとしたこととは笑えない涙に満ちた悲劇であり - 科学の立場からいうならば、実験上の不正直の極致といえるからである」
ウイリアムソンは続けて、自己の信念に合致しない事実に直面した科学者に生ずる問題の核心を論じていく。
「免疫学者は知ったかぶりの不正直着であってはならない (ソーク氏の談話)。
というのは、そういう人は、実際はすべて錯覚であるにもかからわず、免疫が存在するという自分の評価を本当に信じてしまうからである。
こうして事実の認識を誤り直視し損なうと、自己欺瞞という好ましくない立場へと自らを追いやることになる。そうなると、死亡率が上昇し次いで下降したといった場合にひどく幻想的な弁解を、無理矢理に作り出し、魂の安穏のために魔術的な思考に頼ることになる。ーーーこれは、どんな科学者も耐えることができない状況である」
免疫学のすべての科学者と先覚者が、事実にはまったく無知な、真実の歪曲者であったというのではない。種痘の扇動者ジュンナーは、「悪事で有罪」であると、グリーンウッド教授が『ランセット』誌に書いている。以下はウイリアムソン氏の記述である。
「彼(ジュンナー)は、王立協会を脅そうとして失敗し、医学の脚を引っ張ることに決めた。これは非常にうまくいったので、予防接種の問題は百七十年後になっても、みえすいた食わせ者として残っている。」
詐欺?真実の歪曲?そんなやり口で、科学者たちが振る舞えるのだろうか?答えは、彼らも人間で誤りやすい存在であって、自分たちの基本的な信念体系が疑われるような立場に引き戻された者は誰でも、無邪気にか故意にか、自らを欺くか他人を欺くか、どちらかになりやすいという点にある。
見えすいた詐欺まがいの問題はさておいて、なぜ科学者や医師が、部外者によって間違った前提に基礎を置いていると見られても、長年の間、自分たちの方法や体系を保持し続けるのかという疑問がある。
その三の要因に「合意医学」と呼ばれるものがある。伝統的な放射線療法の臨床医であるカール・シモントン博士は、それとは別の方法があることを知り、彼のガン患者を助けることができた。彼は患者がある程度まで自分を救うことができる「心象」という方法を開発し、創始した。彼は現行の臨床に従い逸脱したようにという仲間の医師たちの圧力にあったときに、一人の医師として直面した困難を書いている。
「私は医学を修めるにつれて、『自分が人を助けられるようになりたい』という姿勢では人々を助けるのはとても難しいということに気がついた。
四方八方から私は、ガンの研究治療の分野では、どのような大躍進をとげることも不可能か、少なくとも不可能に近いことを示された。たいていの医師が、自分たちのできることは、そうしたいと思っていたことよりもずっとわずかだと知ったとき、大なり小なりこうした経験をすると確信している。
医師は、組織と先輩たちの両面からの、現行医療の概念と制限を押しつけられるという圧力を受けながら、同時に正しい決定をするために、大変な責任を背負っていると感じるのだ。彼は常に正しくなければならない。というのは、彼が間違えば、誰かの健康や命を危なくするかもしれないからである。
この心配が、彼に与えられる医学教育を受け入れさせる。彼は自分で多くを考えることを躊躇する。それというのも、彼の間違った考えが、患者をもっと悪い状態にしたり、最後には殺してしまうのではないかといったことを恐れるからである。
こうした感じは、頭の中で大きく広がり、この大事な何年かの間に彼らはものすごい圧倒的な恐怖で、しっかりと心を閉ざしてしまう傾向があるのだ」
医師は科学者であると同時に人間である。現在の医療の枠から一線はみ出ることへの単純な恐れ、同僚や仲間から排除され異端者のレッテルを張られる恐れ、これらが慣習に従わせ、平地に波風を立てさせない強力な理由になっている。
こうしてほとんどの人は枠内に留まり、主として結果を歪曲したり、もともとあるべきとされている(受け入れられる)事実に適合するように診断を変更したりする。こういう人は、不正直ではないということになるのである。彼らは、組織の中で守られていると、無邪気に信じている。そして意味論上と職業上とで二つの言葉と思考を使い分けることによって、行動を合理化しているのである。
こうして、予防接種によって(守られて) いるはずの特定の病気のあらゆる兆候と症状をもった病人を前にしたとき、まだ接種を受けていない人の同様なケースならば当然下さねばならない診断が、明らかに困難になるのである。この病気に何か別の病名をつけることで、彼らはその信ずる組織と、予防接種のような活動を築き上げてきた学説の完全性とを擁護しているのである。そのために患者は正しく診断されず、「多血症」といった別の病名をつけられるだけで、正確で信頼できる病名を見つけることは問題にはされない。これらすべては組織を守り、一般大衆に接種の効果についての疑いを飽かせないためになされるわけである。
診断のし直しは実際にあることで、しよっちゅう行われている。ジフテリアではこうしたことがはびこっていて、別の診断が下されるのは、予防接種を受けていた場合だけということが注目される。
ある流行では、再診断の合計がケースの六〇%に達した。この種の不正確さに基づいて統計が作られているときには、そこからどのような意義が引き出せるかを知ることは困難である。職業上立場が悪くなるような診断をしたり、何かをしやべったりするのが嫌いなのは、医学においてはずっと昔に遡る伝統的な性格である。
一人七四年予防接種の擁護者であるヘンリーメイ博士は語った。
「医療関係者が、どんな方法ででも、自分に都合の悪い影響を招くような意見を自らいうなどということは望むべくもない」
「DPT・闇夜の鉄砲」の共同執筆者バーバラ・ロイ・フィッシャー女史は、医学的良心が承認しがたいものと闘わなければならない道義について書いている。
「西ドイツの医博で免疫学者ウォルフガング・エレングートは、百日咳ワクチンについての医者たちの間での支配的な気分は、言ってはならないことはありえないこと』になっていると指摘した」。
いいかえると、「命を守ると思われているこのワクチンが、四十年間に恐ろしいほどの数の子どもたちを殺し脳障害を与えたということは、真実であってはならない。なぜなら、もしそれが真実ならば、いったい我々はどうしたらいいのだろうか? ということになってしまうではないか。それにこれまで、何百万人もの赤ん坊に神経毒ワクチンを日常的に接種してきた医者たちは、いったい今後どうやってその学識をもち続けられるのだろう? ということになってしまう」
このようにして、明らかな真実を無視することが、科学的に訓練された人間にとってはうってつけの防衛機構となるのである。心底からの動機はない。傷つけておいて真実を語らないといった陰険な計画もない。単に事実を直視し、それを受け入れるモラルがないだけのことである。非常に人間的な誤りではあるが、しかし脳を破壊された子どもの親にとっては、容易に忘れ去られるものではないのだ。
こういった特質は、もちろん普遍的なものではない。チャールズ・クレイトン博士は、予防接種王立委員会での証言で、次のように述べた。
「私は、大英百科辞典に執筆するためにこのテーマを調べ始めるまでは、何の疑いもなく、学生時代に習ったことを平凡に信じていた。そしてそれを、長い間変更することもなかった。最初に私に疑念を抱かせたのは、牛痘の性質であった。私は、牛痘とは何であるかを自問自答し始めて、その性質を知り大変驚いた。ジュンナーの時代に書かれた証拠によっても、その後引き続いて書かれた証拠によっても、牛痘という病気は天然痘とはまったく関係がないと思われたのだ。これが私の出発点での疑念であった。その疑念のために私は懐疑主義に陥り、とうとう全面的な不信にまで至ってしまったのである」
予防接種推進施策の継続が必要だとすることに組み込まれている経済的圧力は、詳細を論ずるにはあまりにも複雑である。
経済的利害、つまりワクチンの研究・開発・市場調査に関連する独占と巨大産業の利害の面と、それが政府や教育機関と絡み合った側面とは、ネット・ニュース・サーチ@@による、注目すべき特別報告の中に部分的に触れられている。
それは「ワクチン・マシーン」のタイトルで、再版されたが、多くの丹念に調査された内容を含んでいた。その記事は一九八四年十二月十六日から始まる週に、全米の多くの新聞に掲載され、新聞取扱店で販売された。このときの状況は、予防接種伝説に関するアメリカ人独特の態度を見抜くために、十分に吟味する価値があるものであった。
政府機関、教育・研究機関と経済的利益から後者に提供された膨大な資金の間に存在する絡み合った関係の中で、容易に切れない暗黙のつながりが張り巡らされている事実はよく知られている。このことが、現状維持の方法を推し進める研究のために利用できる財源を必要とするのである。この種の財源がなくては意味のある研究は実際に不可能であるし、しかも財源の提供者が気に入るような研究プロジェクトの原案がなければ財源は与えられないのだ。
いろいろな研究機関、教育機関、(アメリカでは) FDA (食品医薬品局) のような政府機関と組むことも、回り道である。こうしてこれらの施設や組織に所属しながら、その間を行き来できる職員は、ある意味では同じチームの一員になっているのである。
焼き印を押されようとしている子牛が逃げ出そうとして暴れても成功するチャンスがほとんどないのと同様に、制度の支配的な現在是とされている見解を支持するメディアに近づいても現状からは抜け出せるチャンスはほとんどないのである。
『ガネット‥ニース・エイジエンシー』は、この現象を書いている記事を掲載した「ワクチン・マシーン」を報じた。
J・アンソニー・モリス博士は、食品医薬品墓礎生物学部に所属する尊敬すべきウイルス学の研究者である。彼は、一九七六年に豚インフルエンザワクチンを導入するという考えに抗議した。というのは、彼はそれが効果がないと感じていたからである。しかし、彼の提案は却下された。
彼がその結果を警告していたにもかかわらず、五百人前後の人たちがギラン・バレー症候群のために大変な苦悩を与えられたという大悲劇の後、地位を追われてしまったのだ。
私的な非営利的科学研究所を設立した後、彼はクビになってほっとしたと述べた。「私は初めて自由であると感じた」。彼は、自分の免職は、「インフルエンザワクチンは最大の商品」という経済的な動機からであったと信じている。
次に百日咳ワクチンの害が知れ渡った後で、彼は全国ネットワークのフィル・ドナウ・ショーに出演するように求められた。そのとき彼はメリーランド大学の相談員をしていたのだが、番組の中でこのワクチンの効果に対する評価が出てきたのである。そのために彼は大学の理事者によって懲戒処分にされてしまった。
理事者は連邦改悪ら大学への補助金を危うくし、すでに交付された補助金を撤回されるかもしれないと語った。
言論の自由はあるというのに、いったん反対に足の爪先を踏み入れると、大変厳しい仕打ちが返ってくるのである。報道機関は俗受けする権威筋を前面に押し出す。そしてそのことが、次世代の科学者や医師に教えられている保守的な見解を支持することになり、そうした若い人たちが長年の修業を積んだ後確立された秩序の一部を担うようになると、異端者にされることを多くの理由から好まなくなるのである。
こうして組織はいつまでも長らえることができるのだ。
とすればこれを変えうるのは、情報を手にした一般大衆だけである。
変革の動因は一般民衆にあるのだ。だから、人道上のすべての善悪は実際に行なわれることと密接な関係があるといえる。崇高な没我の精神が自ら現れるように、自己主義とずるさは自然に正体が暴露されるのである。
しかし、物事の本性は変化が緩やかだということであり、いったん確立された秩序は頑固にその信じるところと方法を個室しようとすることにもある。これがこんにちの情勢である。
では、親はどうすればよいのか?
(中略)
もともと、生物というものは、どのような衝撃であっても、正常な機能と健康を備えていさえすれば、確実に問題に対応できるのである。しかも、人は誰でも選択の自由への欲求をもっている。とすれば、予防接種の領域でも、さまざまな観点からの情報に基づく討議が大衆を含めて行わねばならない。
なんといっても、主として予防接種に身を捧げるよう求められているのは、彼ら自身の子どもたちなのである。
アメリカでは多くの州で、予防接種がすんでいないと就学が禁じられていることが憲法違反として攻撃されている。しかし他の州では、哲学的信念に基づく理由から、子どもに強制接種を受けさせなくともよいと親に許可しているところもある。それなのに、親は子どもを保護するのに向いていないという理由で、子どもたちを州当局の管理下に置こうとする地方行政官に、すべてをゆだねてしまう危険を冒す親もいる。こういうことが現在のアメリカでは、起こっているのである(PT‥闇夜の鉄砲』参照)。
だが、この種の圧力は、親が接種を疑問視する正当な根拠をもっている場合には、容易には受け入れられない。イギリスでは、選択の自由はあるが、親を従わせようとする圧力は大きく、したがって親が考えを明確に述べることができ、その上問題に通暁していないと、抵抗は難しい。その点で、この本が何かの役に立てれば幸いである。
将来の問題としては、現在行われていない地域に強制接種が導入される危険があり、また他の形の予防接種が開発される危険もある(新しいワクチンが開発されるとすれば、虫歯とエイズとが可能性のあるものの一つである)。我々は水道水への弗化物添加という大量薬物療法がどのようにして法制化されてきたかを知っているが、事実はこのような水を多くの人が飲んでいるのに、虫歯の意味のある減少で利益を得ることはできなかったのである。それは、幼少年期にのみ効果があるにすぎないからである。この方法の潜在的な危険は、また別の問題である。国家による水道水を利用しての大量薬物療法という原理は、予防接種の強制の原理と大変よく似ている。
我々は、予防接種という手段の複雑なイバラの道をかき分け歩んで来て、その効果に関して証拠をもとに、多くのケースに重大な疑いがあることを知った。そこには接種後すぐに起きる危険と、長期にわたる災害の両面があるという証拠がある。
免疫は、パスツールと彼の弟子たちが提示したモデルよりは、複雑であると思われる。抗体の存在しない免疫はありうるし、抗体が存在していても、免疫を欠くことはありうるのだ。なぜなら、抗体は一つの抗原にのみ対応する特殊なもので、異種や「野生」の株は、この見せかけの免疫の裏をかくことができるからである。
真の免疫は、健康な、栄養の満ち足りた、身体の組織をよりどころにしている。そうした身体は、自然が構想しすべての歴史が示すように、細菌やウイルスなどの敵(とともに友)と共存するものである。ところが、これに反する考えの人たちがいて、彼らは予防接種に伴う危険をきわめて望ましいとするのである。
このような方法は遺伝と細胞における変性を起こす能力があることが知られており、(麻疹のように)自然感染を押さえ込むことで、慢性の退性病変を引き起こすかもしれないのである。こうした要素は、すべての人にとって確かなことなのだ。しかも、栄養的に恵まれず、欠乏している人がいて、その人たちの免疫機能は枯渇している。オーストラリアの先住民の悲劇で注目したように、予防接種に最悪の反応を起こした人たちが、そのものズバリの例である。
自然免疫は、健康な、衛生的な生活によってもたらされる。不自然な免疫獲得は両刃の剣であって、利益があると思うのは大変な錯覚であり、その災害はあまりにも切実なのである。
終わり
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