見出し画像

あみの3ブログ

036【国指定史跡】 鳥越城@石川県白山市 令和二年(2020)4月11日 見所編

お城検索は→こちら

いしかわ城郭カード→こちら


国指定史跡 鳥越城

前回のエントリーは→こちら

当城跡は、通称城山と呼ばれる尾根筋の一角にあたる標高312mを測る山頂部に位置する。眼下には手取川、西に大日川を望む場所にある。本庄の城主は、紀伊雑賀一揆の首謀者鈴木孫一重秀の一族である鈴木出羽守であると言われている。鈴木出羽守は本願寺から派遣された武将とされ『信長公記』には、加賀一向一揆が解体された天正8年(1580)11月には、近江安土城に入っていた信長のもとに鈴木出羽守を含む一揆方指導者19名の生首が届けられたと書かれており、この時期に鳥越城は落城したとされる。
しかし、翌年の天正9年(1581)2月には、二曲にて入り置かれた信長の配下であった柴田勝家の兵300人を一向一揆衆が討ち果たし、再び鳥越城を奪還できたとしている。
その後、翌10年(1582)3月に、再び信長配下である佐久間盛政が一向一揆を制圧し、首謀者300名余を磔刑にしたことにより戦乱は終息した。
城は尾根部を空堀や土塁で仕切って人工的に造成された7つの平坦面からなる連郭式城郭である。昭和52年(1977)から平成14年(2002)にかけて14次にわたる発掘調査が実施された結果、天正基の戦乱の舞台となって焼失した建物跡等の貴重な遺構が数多く発見された。
二曲城跡と共に加賀一向一揆の最後の砦となった歴sの舞台としての意義を持つことから国指定史跡に指定され保存が図られている。
昭和60年9月指定 白山市教育委員会

【この日の行程】
主要地方道小松鶴来鳥越線から「国指定史跡鳥越城跡」看板で林道に入る。


途中石碑のある広場が出丸だと思ったが、実際は反対方向の崖下だったことが後から分かる(;^ω^)


駐車場に到着。
舗装された駐車場はトイレも完備されている。
写真は「後三の丸」より撮影、右手の小高い山は「後ろ二の丸」


駐車場から遺構までは目と鼻の距離で山城だがまったく山歩きの感覚はない。


駐車場に設置してある説明版の「鳥越城跡案内図」に従って進むとします。



「後二の丸」の横「空堀」と「土橋」をみながら「本丸西側」に向かいます。


大日川と国道360号線三坂地区が見下ろせる、眺望がすばらしい。



◆「本丸西側」
本丸西側は枡形門から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる傾斜でありました。盛り土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられています。本丸建物と本廓の立ち並ぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰曲輪を臨み、本丸を防除していた郭と想定されます。

登っていくと最初に目に入る平坦地
いくつもの発掘状況が再現されている。


本丸より俯瞰した写真


◆「枡形門」
本丸を守る枡形門は、城内で唯一石垣で三方を固める。石垣は水平軸を通した布目積で、形と大きさを揃えた石材の中に大ぶりの鑑意思を置いて魔除けとし、角部には算木積み技法を取り入れる。斜面地形を生かして石垣の高さを変え、東方の空堀を区切る枡形は、礎石建ての高麗門を南方にあける。




門を内側から見た写真、柱構造が良く分かる


枡形空間
敵の直線的侵入をクランクさせることで食い止め、土塁上から狙い撃ちする第一防御の工夫


◆「本丸門」
本丸の南端は高い土塁が築かれ、その上に柵列を巡らせ防御を固める。尾根筋に載る位置に四本柱の掘っ立て柱による門が立ち上がり、本丸の掘立柱建て建物群を守る要となる。


周囲は土塁でと柵で守られている
写真は本丸門側の高い土塁


本丸南側の追手道方向は空堀、切岸、そして本丸平坦面端に設けられた柵列で防御されている。
写真奥は本丸門、左は本丸遺構


◆本丸
本丸跡は標高312mで、城山の頂上部にあたる。区画は南北に延びる長方形で、南側縁を除いて三方に土塁を築く。内部の建物群は6時期の建て替えを示す礎石と柱穴が数多く配置され、南西側では火災による焼土層が広がっていた。出土品には石臼・茶臼・鉄釘・越前焼の瓶・すり鉢・漆塗り椀などがあり、椀・皿などで中国製時期が目立つ。武器類には鉄砲玉・小刀・鎧断片があり、食料の米は炭化した状態で多量に出土しました。また、井戸跡北側から鉄板片を発見した。

本丸掘っ立て柱建物群の遺構


井戸跡


便所跡


土塁上で眺望を楽しむ人
左は本丸遺構



◆「後二の丸」
駐車場から正面に見える小高い丘


本丸端部から見下ろした平坦部には発掘された遺構の礎石群が見える


本丸と後二の丸は切岸と空堀で分断されている


◆「本丸望楼跡」
本丸門の脇の土塁上に建てられていた物見櫓
頂上部の土塁上と言う高いところから、追手道・枡形門はおろか、はるか城下の動向もうかがっていたに違いない。


◆「中丸」
写真は本丸望楼跡から俯瞰したもので
復元された掘っ立て柱建物・中の丸門・柵列・土塁、奥は二の丸までが一望できる


二の丸から中丸方向、奥は本丸


中丸門、城内より


中丸門、城外より
土塁と石垣に囲まれ、枡形はないが堅固な造りだ


生門から腰曲輪へ至る搦手はクランクした「矢掛」で、敵の直進を阻む工夫がされている


下の帯曲輪はぐるりと南西面を取り囲み、「後三の丸」まで至る。




◆「二の丸」
二の丸跡へは腰曲輪から登る路と、中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろす。郭に全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰曲輪側に備えた櫓である。内側には建て替えを表す掘っ立て柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土杭1基が発見されたが、礎石は抜き取られていた。土杭内からは炭・焼土に混じって、陶磁器類と刀、鉄砲玉、鏡、漆器椀、皿、が出土した。

中丸から二の丸、小高く盛り土されている


二の丸遺構


櫓跡


土塁・切岸と空堀


別宮・二宮方面
階段を駆け下り、空堀を超え「三の丸」方向からさらにその先は「マゴジクボ」、「馬場」を経て「二宮」へ至る


暫く林の中を進んでみたが「三の丸」として整備されている様子はなかった。



ここで折り返し、今来たルートを戻り
◆「後三の丸」へ
鳥越城跡の北端を占める本廓は城跡の中でもっと広く、屈折する空堀によって本丸側から離されて独立的性格を持ちます。西方の裾部には幅の広い腰曲輪が造成され、北東側から東方には空堀が掘られ、水場の「あやめが池」に落ち込みます。
郭へは腰曲輪の南西隅から入り、階段状の区画を登ります。南西隅の狭い区画には掘立柱建物跡や排水溝、石敷の施設が発見されています。
郭内の中枢部から空堀で隔てられた本廓は、前線基地的な役割を果たすものと思われます。

一段低いところは前線基地?


奥の平坦部は広く遺構もみられる


ぐるりと取り巻く帯曲輪


空堀が掘り巡らされている


空堀が東向きの谷知で一段深くほりさげられていて池になっている。


「あやめが池」


発掘状況によると盛り土の下には石積みと水を通す木樋が検出された。
湧水が常に流れ込んで山城における貴重な水源となっていた。



【まとめ】
林道は舗装され道幅も極端に狭く無いので安心して車で登れる。駐車場は舗装され清潔なトイレ完備されている。
駐車場から曲輪群までも近く、軽装でも十分楽しめる。
特に「枡形門」「本丸門」「二の丸門」が復元されていて、戦国時代前期の山城の様子が具体的にわかるので初心者にもわかりやすい。
一部建物や柵列はジオラマ、テーマパークのようでもある。
「空堀」「土塁」「腰曲輪」などの遺構も残っており、よく整備・管理されている。
本来は「三の丸」「馬場」辺りまで散策したいところだが、あまりに軽装な人が入山すると事故の危険が大きいので注意が必要。
石川県の三名城と言えるでしょうね。



※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加

【鳥越城】
《加賀一向一揆の最後の抵抗拠点となった城》





名称(別名);別宮城
所在地;石川県白山市三坂町
城地種類;山城
築城年代;天正8年(1580)以前
築城者;鈴木出羽守
主な城主;鈴木氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;発掘調査に基づき本丸の礎石建物、枡形門、中の丸門、柵列などを復元
天守の現状、形態;天守は持たず、
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事