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あみの3ブログ

第三回 守山城@富山県高岡市 令和二年(2020)4月8日 未踏の「南西山麓曲輪群」

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ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思い日記代わりに記録しました。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。

地元、二上山にある【守山城】を訪ねることにしました。
国道160号線を見下ろす要衝にあり、わたくし毎日の通勤で通る場所です。また万葉ラインではドライブを楽しみ、途中にある(あった)『つけ麺まるかん』へはつけ麺を食べるために何回も登りました(笑)
本丸広場は桜の名勝で西は氷見から能登が望め、東は富山湾から砺波平野、小矢部川の蛇行が一望できる「ふるさと眺望点」なのです。



初回訪れたのは「本丸」からその下にある「二の丸」辺りまで。
2回目は「三の丸」や「侍屋敷跡」


そして春を待って第3回目
【南西山麓曲輪群(武士屋敷跡)】の調査(笑)です



そもそも
地元は氷見なので「阿尾城」や「森寺城」の方がホームと言っていいのでしょうが、私の先祖は「守山城」に勤務しておりまして、当時の社長は「神保安芸の守」
折しも戦国の世の常、巨大企業の「上杉謙信氏」や「織田信長氏」、地元大手の「能登守護畠山氏」との戦いに翻弄され、吸収合併や乗っ取りに押し流され、遂に勤務先の倒産(笑)で失業まさに浪人となったのであります。
そして、宮仕えに疲れ果てた先祖は百姓になる道を選択。カントリーライフで以降400年(笑)現在に至っていると言う訳。
昭和34年発行の村史にハッキリとその辺が書かれております。



数行ですが記述されています。


なのでワタクシは武士の出ということになります(爆)
そういった意味で
先祖の暮らした「武士屋敷」辺りを何としても見てみたかったのです。

先ずは本丸(山頂展望所、桜の名所)から
山頂は八重桜の名所ですが、もう少し早かったですね。


ソメイヨシノは満開でした。


上記縄張り図、「三の丸」「侍屋敷」先端は崖となっており、その下には「二上万葉ライン」のS字カーブが連なっております。
矢印「A」ポイントの平坦地とその下「B」ポイントの「南西斜面曲輪群」は道路で分断されているが本当は一体のものだったようにも感じます。
参謀本部発掘調査資料では「B」を「馬場」とも記載してあります。


道路はさらにS字カーブを繰り返した辺り「A」ポイント
左が崖(南西斜面曲輪群)、右が山(馬場から侍屋敷方向))という位置関係


ガードレールの切れ間に下へ降りる小道があります。
人が歩いているのが道路
その下、撮影ポイントまで2段階になっています。


ここは道路からも近く、地権者の管理が一番行き届いている場所となっている。


その下は3段目でしょうか? 広い平坦地ですが僅かに竹に覆われています。


斜面にあるため奥行きは狭く幅広な平坦地。


さらにその下、4段目?
奥まった場所なので手入れが行き届かず荒れ放題。藪の中という感じです。


途中で見つけた苔むした石。当時の石垣の一部か?
どうやら万葉ライン建設時のもののようです(;^ω^)


ここら一帯は竹林で、今が旬の筍を狙って猪が活発に行動しています。
地中の筍の匂いを嗅ぎつけ、掘り起こして食い散らかしていく被害が多発。
足跡がくっきりと残っています。遭遇すると危険ですね。




【守山城】
《越中の三大山城の一つ》



名称(別名);もりやまじょう(二上城)
所在地;富山県高岡市東海老坂城山
城地種類;連郭式山城 (標高259m/比高250m)
築城年代;南北朝時代
廃城;慶長3年頃
築城者;桃井直常
主な城主;神保氏 佐々成政 前田利長
主な改修者;
文化財区分;
近年の主な復元等;
遺構;郭 石垣 空堀

※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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