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あみの3ブログ

源氏ヶ峰城@富山県小矢部市松永 令和三年(2021)3月31日

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【源氏ヶ峰城】
小牧長久手の戦いで徳川方に味方した越中の佐々成政。
かつての僚友で秀吉方である加賀の前田利家とはこの一件で敵対関係になり、両者の国境付近(加越国境)では急速に緊張が高まりました。
成政は加賀国境付近の防御を固めるうえで
「松根城」→こちら
「荒山城」→こちら
「一乗寺城」→こちら
を大改修し、
「源氏が峰城」もそれに準じる形で手を加えています。

結局ここでは両者の激突はなかったものの、富山の役で羽柴秀吉の大軍の前に成政は降伏。越中の西半分は利家の嫡男・利長に与えられ、それに伴い加越国境付近の緊張状態は解消し、やがて廃城になったようです。






場所は富山県小矢部市松永、
「倶利伽羅不動寺」と小矢部市道林寺地区を結ぶドライブコース「源平ライン」こちら
の途中にあり、木曽義仲で有名な「源平合戦」の古戦場の近くでもあります。





倶利伽羅不動寺、源平供養塔から少し先の「地獄谷」で源平ラインが大きくカーブするところに「源氏ヶ峰」があります。





案内看板や展望台があり、そして昇降階段が取り付けられていますので分かり易いです。



階段を登ると木製の展望台がありますが、訪問時は朽ち果てて使用禁止の処置がとられていました。



源氏ヶ峰城址はこの先、峰の頂上にありますので尾根を登っていきます。
急な階段を登る手前に



北側尾根の防御とみられる「堀切」が現れテンションが上がる



その少し先には「大きな竪堀」があって、下草がまだ伸びていないので全貌がハッキリ見て取れました。

これらは敵が地獄谷を迂回して北側斜面から侵入することを想定した第一防衛線なんでしょうね。



急な坂を登りきると、いよいよ山頂の城郭に到着です。
まず目に入るのは標柱と小高い丘。櫓台の土盛り、もしくは土塁かと思いましたが、実は全く別のものでした。
それは後程説明します。




ここで縄張り図で行程を示します。(越中中世城郭図面集Ⅲより) 朱書きはブログ管理者

城域は北側尾根から進入し、標柱が建つ小高い丘のある平坦面を中心に、西側と東側の尾根に広がっています。
まず西側の尾根をすすみ「主郭」「E郭」、主郭下北側に張り出した「D郭」「F郭」、南西方向の崖下に展開する「G郭」や堀などの遺構をみて
標柱のある中心部「B郭」に戻り
最後に東側の「C郭「H郭」「大堀切」などの遺構をみて帰るという行程です。




中心部にある標柱が建つ小高い丘のある平坦面「B郭」
尾根上に構築された曲輪は幅が狭く細長い形状。主郭はこの奥の方向です。



主郭に進むには土塁で造られた虎口を通らなければなりません。
進入方向をクランクさせ侵入速度を抑制させる、「喰違虎口」となっています。



喰違虎口を抜けると主郭です。
主郭平坦面



主郭は少し高くなっており、その下南側に細い通路が設けられています。
主郭から先の西側施設との連絡通路のようですが、敵が侵入した際は細い通路に一列に並んだ状態となり、上段から一斉攻撃を受ける仕組みです。



主郭の先は「深い堀切」が南北の両側に切られていますが、遮断するのではなく通路も確保されています。



堀切の先の「E郭」は行き止まりとなっており、周囲は土塁で囲まれ、斜面は切岸で守られています。
南西先端部には物見台のような盛り土もみられましたが、用途は分かりません。



主郭看板と北側土塁



主郭下、北側尾根に出っ張る形の「D郭」には竪堀が施されているようですが、クマザサが密集しており状況は確認できませんでした。



主郭西端から堀切の北側斜面を下りたところに「F郭」があります。堀切には急な階段とロープが設置されています。



主郭奥の「E郭」を見上げる



やはり「F郭」も北側斜面の防衛と、南西尾根の要衝となる曲輪のようです。



南西尾根に降りていく道



南西尾根に降りていくと「大きな堀切」が見えてきました。
これは主郭西端の「E郭」の崖下にあたり、その向かい側にある山の頂上の「G郭」との防衛線でもあるようです。



南西尾根「G郭」
深い堀切から頂上へ登ります



「G郭」平坦面



「G郭」から大堀切越しの「E郭」



「G郭」の南西方向を下ると、階段状に小さな平坦地が見られます。



谷側の斜面に巨大な「切岸」を施し敵の侵入を阻止する南西尾根の第一防衛線があるハズですが、残念ながら確認することはできませんでした。




ここで一旦中心部の「B郭」まで戻り、
最初に書いた標柱のある土盛りについて説明します。



これは西側尾根との出入りをコントロールする「喰違虎口」だったのです。
つまり、東と西に二つの虎口を設けて防御を固めていたのです。



「B郭」から喰違虎口を抜け東側尾根に進みます。

左方向「C郭」と右下「H郭」の分岐



「C郭」は行き止まりの曲輪で、先端には大堀切で切断されています。というか、先端の崖下に大堀切が切って有り、高台となっている「C郭」上から下の敵を狙い撃ちすることができそうです。



「C郭」の分岐から下を通って「H郭」に向かいますがその間は「大堀切」で切断されています。



完全に分断されてはなく、脇に通路が確保され曲輪間の連絡は可能です。また敵が侵入した際は、先ほどの「C郭」上段からの攻撃が待ち受けています。
「C郭」の下方向に広がる「H郭」



「H郭」の東尾根先端部にも大きな堀切が施してあります。
堀切北側
この先、北面は崖


堀切南側
この先南面も崖


切断された尾根最先端部は物見台のようにも見える。
東側尾根から進入する敵を想定した第一防衛線の役割で、侵入した敵には上段にある「H郭」からの攻撃が待っています。



佐々成政が最重要防衛拠点と考えたのは、冒頭紹介した3城です。
つまり北陸道の脇道である
「二俣越」には荒山城
「小原越」には松根城
「田近越」には一乗寺城
を配置して鉄壁の守りを固める。
これら3城の特徴は街道に沿って立地しており、街道を城から直接攻撃もしくは封鎖できる点です。

今回の「源氏ヶ峰城」は北陸道の守備を担っていたわけですが、直接街道に面していたわけではなくかなり離れているので大改修されていないとする意見があります。
専門家によれば、成政は「龍ヶ峰城」「和田山城」「源氏ヶ峰城」と3つも並べておけば何とかなるだろう的な考えで、時間の制約上大改修を「荒山城」「松根城」「一乗寺城」に絞ったというものです。

徐々に劣勢に追い込まれていく成政は、秀吉が動く(前田利家に対する丹羽長秀の援軍到着)前に能越国境にある「末森城」を攻め、前田方の加賀国と能登国を分断して成政有利な展開に持ち込もうとしていたのではないかと佐伯氏は越中中世城郭図面集Ⅲのなかで語っています。
なるほど、「朝日山城」攻めは加越国境に利家の注意をひきつけて置く陽動作戦で、本当の狙いは能登の末森城だったのか。

しかし利家・利長親子の動きは早く、末森城奪還に失敗した成政は富山城での籠城戦に戦略を転換。しかし秀吉率いる成政討伐軍により敗北という歴史的事実がまっていたのでした。ちょっと切ないですね。



【源氏ケ峰城】



名称(別名);げんじがみねじょう(源氏ケ峰砦)
所在地;富山県小矢部市松永
城地種類;山城
標高/比高;180m/
築城年代;寿永2年(1183年)5月
廃城年代;天正13年(1585年)頃か
築城者;平維盛
主な改修者;佐々成政
主な城主;平維盛、佐々成政勢
文化財区分;
主な遺構;曲輪、土塁、竪堀、堀切、切岸
近年の主な復元等;


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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