【玄蕃尾城】
《歴史》
天正10年(1582)柴田勝家により築城された。翌11年3月、勝家は豊臣秀吉と対決すべく玄蕃尾城に本陣を置き、周辺一帯に行市山砦などの陣城を築かせた。4月に秀吉の軍勢が大垣に出陣した隙を突いて、勝家も軍を率いて攻撃にかかった。だが、秀吉軍の反撃にあい、勝家軍は総崩れにとなって北庄城へ敗走した。(賤ケ岳の戦い)
戦後は再利用されなかったため、勝家本陣時代の陣城としての遺構が残る。
《縄張り》
内中尾山の山頂に位置し、北國街道を見下ろす軍事上の要所であった。南北に主要な曲輪を四つ並べて、それぞれを土橋で連結していた。主郭の前方・後方に馬出を合計二つ配置する縄張りであった。馬出は兵站基地や出撃の拠点としての役割を持つコンパクトな曲輪であった。、、、続日本100名城 日本城郭協会 学研
場所は福井県敦賀市利根、及び滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬にまたがる内中尾山の山頂。
例年冬の期間は積雪が多く、登城が危険なので見合わせるようHPなどで注意が促されています。
そして4月2日今シーズンが開幕したと、敦賀市の告知がありました。→こちら
専用駐車場は長浜市側にのみ設置されています。
自宅から北陸道を通り敦賀IC下車、国道8号線を長浜方面に走り、途中県道140号線で分岐。
柳ヶ瀬トンネル手前で左折し
林道を走る。
終点に玄蕃尾城登山口があります。
駐車スペースと仮設トイレ、BOXにはパンフレットが備えてありますが、今期限定の「御城印」は既に完売‼ 残念(;^ω^)
ここから頂上を目指します。
直進「行市山砦」と分岐
玄蕃尾城跡へは左手の山を登ります。急な坂はわずかで
登り切れば後は平坦地が続きます。
風景を楽しんでいるうちに「史跡玄蕃尾城跡」に到着。
城跡手前にある史跡説明板
ここで縄張り図と当日の行程(敦賀市教育委員会発行パンフレットより抜粋、図中の赤文字はブログ管理者記入)
城郭は南北の尾根沿いに伸び、手前(南側)から北側へ「大手虎口郭」「虎口郭」「馬出郭(南側)」「主郭」「馬出郭(北側)」土橋を挟んで「搦手郭」と並び、主郭東側に「張出郭」が取り付いています。また東側斜面には各曲輪間の連絡通路として「帯曲輪」があります。
各曲輪は「土塁」と「空堀」で囲まれ、その一つ一つが下草を奇麗に刈り取り土の城を見事に蘇らせています。
こんなにきれいに見やすく管理されている山城は初めての体験です。
「大手虎口」
左右の土塁で門のような入り口を形作っています。奥に進むには土塁でL字型にクランクさせられます。
虎口を土塁上から見たところです。
虎口西側には「空堀」を挟んで土塁が築かれ、厳重な守りとなっています。
「虎口郭」
南北に細長く、北に進むに従って開口部が狭くなるり、先端に二つ目の虎口がある構造。
すなわちこの削平部は巨大な枡形とも言えます。
説明書によれば
北國街道に向かう最短ルートである東南の谷筋に開口しており、③馬出郭からこの郭を経由して、一気に出撃できる構造になっています。
大手虎口から進入した敵は空堀の間に設けられた細い土の「土橋」を渡らされるが、虎口郭から狙い撃ちされる仕掛けです。
「(南)馬出郭」「(北)馬出郭」
本丸の虎口の役割を果たし、かつ三方に横矢を効かして突出しています。出枡形で本丸虎口を隠しながら、敵に対しては屈曲を強いるという完成度の高い形態を示しています。、、、同
主郭虎口から見た南側の馬出
主郭へは土橋で繋がり、三方を土塁で固め、西の虎口郭・東の腰曲輪の両方向へ出撃できる構造。
「主郭」
45m四方の方形で周囲を高土塁と空堀で厳重に囲んでいます。南北一か所ずつ設けられた虎口はどちらも喰違虎口で、土橋によって外枡形と繋いでいます。
、、、同
(南)馬出土橋より主郭虎口と本丸内平坦地
主郭東南部の土塁
「主郭・櫓台」
主郭の北東角が一段高くなっており、礎石もみられることから、櫓台と想定されています。、、、同
礎石跡
主郭北側虎口から馬出
喰違虎口から土橋で馬出に繋がり、馬出が外枡形の形状となっている。
(北)馬出から搦手郭へは土橋で繋がり、細い土の橋を渡る敵は馬出の土塁から狙い撃ちされる。
「搦手郭」
比較的単純な形ですが、喰違虎口や折れを用いています。城中で最も広い郭で、兵の駐屯地や物資の集積地だったとみられています。、、、同
北西隅土塁と空堀
搦手郭は四方を土塁で囲み、三方に空堀を巡らし、南側は深い谷で天然の堀としている。
南西隅の土盛り
見張り台があったと思われる。
北東隅の虎口も喰違虎口形状
「張出郭」
主郭の東側に設けられ、独立した馬出ほどの広さの曲輪です。
腰曲輪からみた張出郭
主郭東側の虎口から土橋を通って出入りします。北東から南東の視界が開け、北國街道側の見張りと攻め上がる敵に対する横矢に最適な出丸となっています。
「まとめ」
専門書などによれば
虎口正面の土塁が分厚く高い反面、各曲輪周囲の土塁が低くて細い。その理由は鉄砲を撃つための胸壁であり、その他構造物からも鉄砲戦に適応した最先端の城だったのではないかとしている。しかしながら城内各所に細部の処理の甘いところがあり、こうした未完のところは、工事途中で賤ケ岳の戦いが始まり、そのまま勝家の本陣として使用されたのではないかと結んでいます。
いずれにしても史跡看板の文中にあるように
極めて限定された時期の城郭遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の「標識遺構」として重要であることに間違いなく、戦国時代のタイムカプセルと言える遺構です。また地元の方々の努力もあって、素晴らしい保存状態に維持管理されていることに感動しました。
【玄蕃尾城】
《柴田勝家が構築した臨戦の城》
名称(別名);内中尾山城
所在地;福井県敦賀市利根、及び滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬
城地種類;山城
標高/比高;468.2m/210m
築城年代;天正10年(1582)、諸説あり
廃城年代;1583年(賤ヶ岳の戦い後)
築城者;柴田勝家、諸説あり
主な改修者;柴田勝家
主な城主;柴田勝家(賤ヶ岳の戦い時の本陣)
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;郭、空堀、土塁、小口、土橋、
近年の主な復元等;発掘調査、定期的草刈り等維持管理
※冬期間(11月下旬~4月上旬)の登城は困難
※専用駐車場は長浜市側にのみ設置
※出典、、、続日本100名城 日本城郭協会 学研
地図;
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