石川門と兼六園をつなぐ、お堀通り(百万石通り)にかかる橋
お堀通り広坂側より見上げ、左が石川門、右が兼六園
(2016年撮影)
兼六園から橋を渡り石川門をみる
(2013年撮影)
石川門石垣上の海鼠壁と唐破風
(2016年撮影)
三の丸から二の丸方向には五十間長屋が復元された
2013年映画「武士の台所」撮影風景
(2013年撮影)
慶長4年(1599年)利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。翌、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ(異説あり)、戦後に利政は所領を没収された。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、3か国・120万石に及ぶ所領を獲得した。
寛永8年(1631年)、将軍徳川家光は第3代利常(利長の弟)の行動を疑い「前田征伐」を計画するが、横山康玄に陳述させ、利常も自ら長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示すことで収めた(寛永の危機)。
寛永16年(1639年)に利常が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。
、、、出典ウィキペディア(Wikipedia)
城址は明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていた。
明治8年陸軍歩兵第7連隊が金沢城址に置かれた。明治14年火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失。
明治31年陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続した。
、、、出典ウィキペディア(Wikipedia)
【復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が優美な姿を見せる】
金沢城は天正8年(1580)加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を織田信長の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。天正11年(1583)前田利家が加賀に入封して、犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を加賀支配の拠点とすべく近世城郭へと改修した。基本的な縄張りを行ったのはキリシタン大名の高山右近と言われる。
天守は慶長7年(1602)落雷により焼失。残念ながらその姿については記録が無く不明である。名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、唐破風付出窓や二重、三重の多聞櫓なども、加賀百万石の居城に相応しい格調の高さと美しさを見せている。
【金沢城】
《多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城》
名称(別名);
所在地;金沢市丸の内
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)、天正11年(1583)
築城者;佐久間盛政、前田利家
主な城主;佐久間氏、前田氏
文化財区分;平成20年金沢城址として国史跡
近年の主な復元等;平成13年に菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪一の門、
平成22年に河北門、いもり塀を復元、平成27年に橋爪二の門を復元、玉泉院丸庭園を整備
天守の現状、形態;
追記:兼六園は金沢城の外郭庭園として五代藩主綱紀が作庭、以後さらに整備され江戸時代を代表する大名庭園で、
水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで「日本三名園」のひとつに数えられている
地図;
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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