見出し画像

あみの3ブログ

144 大垣城@岐阜県大垣市 令和元年(2019)6月4日

【働き方改革で強制有給休暇消化!火曜日限定のラーメンとお城歩きの旅】

瑞穂市、揖斐郡周辺で時間調整といえばここしかありません! というか、ここへ行くつもりの行程計画。
大垣市内に入って城を目指すもナビは町の中心部、ビル街のど真ん中へ誘導!どうなってんじゃ?と思ったとき天守がチラッと見えた!


有料駐車場に停め城西公園わきの乾隅櫓口から入城。


スゲーコンパクト
もう一度旧東門から城西公園に出て本丸を見上げ全体城を確認する。


城西公園からの全体図


こじんまりとした本丸を抜け正面入口へ向かうも、なんと休館日。東海地区のラーメン屋さんは定休日が火曜のところが多く「魔の火曜日」と恐れられているそうだが、まさかお城までとは、、、(;^ω^)


城西公園を抜けると左手に元の二の丸・本丸跡地が大垣公園として整備され市民の憩いの場となっている。また突当りには官公庁が軒を並べている。
北の方角に少し歩くと堀にでる。大垣城の北側、龍ノ口門付近の水門川、城郭を取り囲む外堀で川下りの遊覧船乗り場があるが残念ながら本日は営業していなかった。



【関ヶ原の戦い西軍の陣と石田三成】
石田三成は慶長5年(1600)8月10日大垣城に入り守りを固めます。9月14日に徳川家康が美濃岡山の赤坂に本陣を置くと前哨戦となった杭瀬川の戦いで勝利します。このように当初は大垣城にて徳川勢と抵抗しようと考えていましたが、9月14日夜主力部隊を関ヶ原に展開させます。そして大垣城には義弟で臼杵城主の福原長堯氏を大将に熊谷直盛、二の丸に垣見家純・木村勝正・同豊統・相良頼房(長毎)、三の丸に秋月種長・高橋元種ら7500を残します。
9月15日関ヶ原の戦いにて西軍石田三成らが決戦の火蓋を切る直前の9月15日早朝、徳川勢の水野勝成・松平氏・西尾氏・津軽氏らが三の丸を攻撃開始し三の丸は落ちました。
関ヶ原の本戦では石田三成が敗走し大垣城は敵地に取り残されました。翌16日には水野勝成の内応により将兵は敗走、大将の福原長堯(臼杵城主)勢だけが残り抵抗・籠城を続けたが、9月23日徳川家康の使者・西尾光教の説得を受け松平康長に降伏し、大垣城を開城しました。


【大垣藩10万石と戸田氏11代】
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は大垣城に5万5千石で石川康通を入れ大垣藩が成立。
1620年下総・関宿藩主松平忠良をが万石で入封。その時代に望楼型天守を複合式層塔型三重四階に改築。
寛永12年(1635)摂津尼崎より戸田氏鉄入城。前職の尼崎藩に於いての治水事業の成功をもとに大垣でも治水事業に熱心に取り組み藩政を安定に導いた功績は大きく公園に銅像が建立されている。


第7代藩主氏教は上野館林藩主松平武元の実子で合った事もあり老中に抜擢され幕政に参与した。
第11代藩主氏共は譜代大名として第2次長州征伐に参加、鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は新政府軍と戦い朝敵に指定された。しかし家臣の小原鉄心の説得で藩内の意見を佐幕派から尊皇派に統一させ新政府に謝罪。戊辰戦争では新政府軍として参戦。それによって明治元年8月処分解除、直後の版籍奉還では大垣知事に任ぜられた。


【歴史】
大垣の地は美濃と近江を結ぶ最重要拠点だったので織田氏と斎藤氏で奪い合いとなっていた。1549年ころには斎藤氏が奪還したようで竹年尚光が城主を務めている。
その後16世紀に築いた牛屋城が前身とされる。小規模な中世城郭であったが永禄2年(1559)氏家直元(卜全)が入城して大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して土塁を築き、城と城下町を取り巻く総構えも構築された。天守は四層四階建て、総塗りこめ様式の優美で大規模な大垣城が誕生した。
最盛期の規模は現在の敷地からは想像もつかない四重にも水堀を巡らした層が前の城だったようだ。
城の改修は続けられ関ヶ原の戦いでは西軍を率いた石田三成の本拠地となった。東軍に包囲され3日間の激しい籠城戦を展開したが落城した。その後城主の入れ替わりはあったが、寛永12年(1635)摂津尼崎より戸田氏鉄入城以降は戸田10万石11代が続いて明治維新を迎えた。
昭和11年国宝に指定されたが昭和20年の戦火で焼失。その後昭和34年に再建。
郡上八幡城は昭和8年に木造で再建されたが見本としたのが当時の大垣城で、大垣城そっくりの模擬天守。そのため大垣城を再建する際には今度は郡上八幡城を真似て建築したそうである。



【大垣城】
《関ヶ原の戦いで籠城戦の舞台となる》


名称(別名);大垣城(おおがきじょう)、別名巨鹿城(きょろくじょう)
所在地;岐阜県大垣市郭町2-52
城地種類;平城
築城年代;天文4年(1535)?
築城者;宮川安定
主な城主;氏家氏、池田氏、羽柴氏、伊藤氏、戸田氏
文化財区分;市指定史跡
近年の主な復元等;鉄筋コンクリート復元昭和34年(1959)
天守の現状、形態;
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事