見出し画像

あみの3ブログ

黒野城@岐阜市黒野 2024年10月26日

お城検索は→こちら


文禄3年(1594)に加藤貞泰により築城されました。本丸の大きさは約110m四方のほぼ方形を呈しますが、南西の入り口(虎口)部分は外側に張り出した構造になっています。
 貞泰は美濃国今泉村橋詰(現在の岐阜市役所南側周辺)の生まれです。甲斐国主であった父・光泰が朝鮮の陣中で亡くなり家督を継いだ後、美濃国黒野4万石へ移されました。関ヶ原の戦いでは東軍として活躍、その後、領内を水害から守るため、尉殿堤(市史跡)を築くなど城下の整備に力を注ぎましたが、慶長15年(1610)に伯耆国米子6万石に移封となりました。さらにその後、元和3年(1617)に伊予国大洲6万石の城主となります。
 米子移封まもなく、黒野の地は加納藩領となり城は取り壊されました。16年という短期間の城でありましたが、本丸は近世初頭の姿をとどめており、周囲を囲む土塁と堀も良好な状態で残されています。
 なお、平成25年度から平成28年度にかけて発掘調査を実施したところ、虎口付近で石垣と土塁の一部を確認したほか、菊丸瓦を含む800点以上の瓦片や陶器片が出土しています。、、、現地案内板(岐阜市)より


場所は岐阜市黒野
JR岐阜駅からだと、本町2丁目交差点で右折し「忠節通り(国道157号線)」を北上。長良川に架かる忠節橋を渡り、「正木北町南」交差点を左折して県道78号線に入ります。伊自良川に架かる繰船橋を渡り「折立稲場」交差点を県道91号線へ直進、しばらくすると病院が右手に見えてきます。病院→11-7コンビニ→スギドラックと並び、スギドラックの角を右折して住宅街に入ります。
※余談ですが城址の南側に「麺切り白流」というラーメン屋さんがあることに気づきました。ラーメン食べ歩き時代に通った店で、懐かしいです。→こちら



そこから約130m程で城址公園南西隅に着きます。



道なりに30mほど直進すると城址公園入り口の土橋が有りますので、そこに駐車可能です。



また、土・日・祝日の城址見学者に限り「平成医療専門学院」の駐車場が利用可能です。駐車場の場所は、公園南西隅を右折し土塁・堀沿いに150mほど行くと左手にあります。




遺構
南東隅土塁と堀
幅約15mの水堀、高さ5m傾斜45度の土塁が残っています。



南面土塁
昭和時代に再造成されたもので、造成の際に南側に橋、南西部は遊具が設置され虎口の原形の面影は少ない。



土橋より西面堀、北方向
広小路辺りで堀と土塁には「折れ」が入っています。(堀の中の東屋あたり)



土橋より西面堀、南方向
堀幅約15m




土橋をわたると、土塁の傍らに城址碑があります。
2015年の調査では石垣列の南で瓦の破片が出土し、城門などの建造物が存在したことが明らかになりました。




南面土塁



土塁手前にある城主碑
2013年から発掘調査が進められており、2014年、入り口部分にて黒野城ではじめて石垣列が出土し、枡形虎口が確認されたそうです。



南面土塁上



南面土塁より本丸
本丸跡地はグラウンドとなっています。



南東隅櫓跡
七間×九間の張り出し上に二層の櫓が建っていました。
現在の土塁は昭和に入ってから造成されたものですが、築城当時の土塁は現在地より北側に張り出した形状でした。




北面土塁



北西隅櫓跡
十二間×三間の張り出し上に二層または三層の櫓が建っていたと推定されます。黒野城には天守は無く、天守に相当する櫓があったと思われています。




本丸周辺
本丸の周辺は加藤氏の一族の屋敷で固められていました。



西側の二の丸跡周辺では、地域住民の熱いお城愛を感じました。



私設でしょうか?二の丸資料館まで有りましたが、あいにく休館日でした。


店頭の資料展示







【黒野城】
《》

名称(別名);くろのじょう
所在地;岐阜市黒野
城地種類;平城
築城年代;
築城者;加藤貞泰
主な城主;加藤氏
文化財区分;岐阜市指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;天守なし、土塁、水堀

※出典、、、現地案内板、ウィキペディア他
地図;
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事