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あみの3ブログ

菩提山城「城郭遺構編」@岐阜県不破郡垂井町 2024年10月26日

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伊吹山系の東端に位置する標高402mの菩提山頂に築かれた東西約150m、南北約300mの西美濃最大級の山城である。七つの曲輪と多くの小作平地、堀切、竪堀などが巧みに配置されている。
 『美濃国諸家系図』によると応永20年(1413)に岩手弾正左衛門頼重が「岩手城」に住んでいたとしているが、「菩提山城」の名前が見える最も古い記録は、天文13年(1544)美濃守護職土岐頼芸が岩手四郎に宛てた書状に見える。
 永禄元年(1558)竹中遠江守重元は、岩手氏を攻略して岩手付近一帯や福田、長松(現大垣市)をあわせた6千貫の領主となり、翌年ここに城を築いた。
 重元の子、竹中半兵衛重治はこの城に住んでいたが、永禄7年(1564)稲葉山城を攻略し、その後織田信長、豊臣秀吉に仕え天正7年(1579)に播磨三木城(兵庫県三木市)攻めの陣中で病没した。
 重治の子重門は菩提山城を下り、岩手に陣屋を構えた。、、、現地案内板より



場所は岐阜県不破郡垂井町岩手
名神関ヶ原インター下車、国道21号線から県道53号線にて垂井町へ入り「長畑」の信号を左折し県道257号線を進み、竹中氏陣屋(現在の町立岩手小学校)背後の「菩提山」山頂を目指します。
現在では「菩提山城跡ハイキングコース」として三つのルートが整備されています。

菩提入り口からのルート記事「登城道編」は→こちら




大手山道合流地点から登り始めて約15分
ついに城郭遺構発見!
大手山道の第一関門と言うべき堀切と土橋です。
※縄張図(以下同)「⑨土橋」



尾根の両脇を削って谷に落とし込んで「竪堀」としています。



狭く削られた尾根は堀に架かる橋のようで、下から攻め上がってくる敵の進入速度を低下させ、渋滞したところを上から狙い撃ちする防御施設ですね。




そして、いよいよ城域
非常にわかりやすい縄張図が有りましたので、これを手にくまなく散策しました。
菩提山城散策マップ(垂井町観光協会)
(あみの3加筆、赤色は往路、青色は復路)

城は、北尾根と南尾根、そして東尾根(大手道)の合流する中心部に築かれています。各尾根からの敵の侵入を防ぐ堀や、中心部の本丸を守るように曲輪が配置されていることがわかります。高低差や斜面など自然地形も巧みに取り入れています。



「⑨土橋」の尾根を駆け上がると、大手道は二手に分かれます。



「⑧大手曲輪」
尾根を階段状に削平した「大手曲輪」で待ち構えている兵が、下から攻め上がってくる敵を迎え撃ちます。



東側の道が遊歩道として整備されており、自分は帰路にここを通り、往路は西側の崖の斜面を進みましたが整備されていないので滑落の危険がありますね。
東西どちらを通っても二の曲輪や本曲輪がある高台と、大手曲輪の間に築かれた堀切に行く手を阻まれます。

「⑧堀切」
西側大手道より堀切の堀底を通って、大手曲輪(右側)を見上げる。


二の曲輪(右側)と、大手曲輪(左側)の間に築かれた堀切



「⑧二の曲輪切り岸」
高い斜面を急な角度に削って、堀切からの侵入を防いでいます。



「③三の曲輪」
東尾根から本曲輪に攻め込むには切り岸が邪魔しているため、西側の谷筋を回り込むしか有りませんが、そこには三の曲輪が守りを固めています。



三の曲輪は南尾根の付け根に築かれた曲輪で、南尾根からの侵入者と東尾根からの侵入者の最終防御施設といえます。



三の曲輪に敵が侵入した場合は、その上段にある二の曲輪から集中攻撃を受けることとなります。
二の曲輪から見下ろした三の曲輪



ここで一旦南尾根を下り、
攻め手の気分で南尾根を駆け上がってみることにします。





南尾根先端部
斜面を階段状に削平した平場が続きます。ここには兵士が駐屯していたんでしょうね。
この尾根を攻め上がって来たと想定します。



上段平場の崖側にはこんもりとした土塁状のものが確認できましたが、これは物見台跡かもしれませんね。



ここから先には大きな防御施設が連続して待ち構えています。
「Yの字空堀」
直進しようとすれば尾根を横断する空堀に阻まれ、西側の斜面から回り込もうとすればYの字に分岐した竪堀により横方向の移動が阻止され、上段の「腰曲輪」から狙い撃ちされます。


「畝状竪堀」
この空堀を乗り越えると、今度は「畝状竪堀」が待ち構えています。


畝状竪堀と空堀



西側斜面がダメなら、東側斜面から回り込もうとすると出丸東側斜面に掘られた竪堀により横方向の移動が阻止され、上段の出曲輪から狙い撃ちされます。



三条の連続竪堀を下から見ると、現在は土砂の堆積などで堀底が浅くなっていますが、当時は相当深かったんでしょうね。
畝状竪堀により横方向の移動が阻止され、かつ密集した兵は、上段の「出曲輪」に向かってよじ登るも、狙い撃ちされてしまいます。



この迎撃をかわし、切岸を駆け上ると「出曲輪」にたどり着きます。



また、西側斜面のYの字竪堀を乗り越えた兵は「腰曲輪」にたどり着きます。



「⑦堀切」
そしてここから本曲輪を目指し攻め上る訳ですが、西側の「腰曲輪」、尾根上の「出曲輪」、東側斜面のいずれからも、尾根上段に向かうすべは有りません。
なぜなら、南尾根の端から端まで横に切断したような大きな堀切が行く手を阻んでいるからです。斜面を掘り下げているため、堀底から見上げる上段は平地に掘られた堀の数倍の高さに感じることでしょう。
出曲輪から堀越に三の曲輪方向



現在では、あまりに危険なのでロープが取り付けられています。
西から(左側が三の曲輪)


堀切断面
土砂で埋まっていることを考えると、当時はもっと深くて鋭角だったんでしょうね。
東から(右側が三の曲輪)




堀底は西に向かって谷筋につながり「水の手」という山城にとっての生命線とも言うべき水利施設があります。




尾根中央部

この大堀切を乗り越えた者だけが三の曲輪にたどり着きます。
先に紹介した「③三の曲輪」に戻り、ここから本曲輪を目指します。

「⑤竪堀」
本曲輪のある尾根の頂上は鋭い切岸によって直登は阻まれ、



裾野を回り込むしか有りませんが、西側斜面には横移動を阻止する竪堀が施されています。






したがって、竪堀と切岸の間の狭い通路を通ることとなり、密集して停滞した兵は上段の二の丸から集中攻撃、さらに正面の台所曲輪からの集中攻撃を受けます。


この攻撃をかわした兵だけが台所曲輪に侵入できます。
現在は教育委員会によって発掘調査中で立ち入り禁止となっています。新たな発見が期待されます。



台所曲輪の東側は尾根頂上部に直結し、本曲輪やに曲輪など最重要施設の出入り口の守り固める曲輪です。
写真右側が本曲輪切岸、そこを登れば本曲輪虎口となります。



台所曲輪は先に紹介した「東尾根」や「南尾根」からの侵入を食い止める最終防御施設です。
さらに北尾根からの侵入にも備えなくてはならない役割があります。



それでは南尾根のときと同じように、ここで一旦北尾根を下り、
攻め手の気分で北尾根を駆け上がってみることにします。




北尾根「堀切」
北尾根最初の防御施設で尾根を分断しています。



斜面を階段状に削平した平場が続きます。ここには守備兵が駐屯していたんでしょうね。
堀切で停滞した兵は上段にある小曲輪から狙い撃ちされます。
そこを乗り越え上段の小曲輪群を本曲輪目指して突き進みます。


ここにもあった見張り台?
大きな平場にあったこんもりとした土塁状のもの。



突き進むと待ち構えているのは上段の「西の曲輪」



正面突破がムリなら東側斜面に回り込もうとしますが、ここには竪堀が横移動を阻止します。
右側が本曲輪切岸



それならば西側から回り込もうとすると、やっぱり竪堀があって横方向の移動が阻止されます。



西側斜面は比較的緩やかなため、二本目の竪堀が用意されています。



西側斜面に築かれた「帯曲輪」
台所曲輪と西の曲輪の西側の下段にあり、連絡通路の役割があったようです



西の曲輪に攻め込むと上段にある本曲輪から集中攻撃を受けます。
本曲輪より西の曲輪を見下ろす。



西の曲輪と本曲輪の間の防衛線「空堀」



西の曲輪から本曲輪を目指すには台所曲輪の坂を登らなくてはなりません。
先に述べた台所曲輪の役割がハッキリと実感できました。




北尾根、南尾根、東尾根(大手山道)からの攻め手が台所曲輪まで攻略すると、いよいよ本曲輪のある頂上に突入するのみとなります。



「⑥虎口」
北尾根、南尾根からの侵入者を一旦台所曲輪に滞留させて、狭い坂道で進入速度を遅らせて虎口に向かわせる。そこを二の丸から集中攻撃!!
そう考えると台所曲輪は馬出しの役割があったんではないでしょうか?(個人の妄想)



虎口から突入すると最終防御施設の「⑥馬出」から敵兵が殺到します。
馬出平坦地



本曲輪と二の曲輪の間に二本の「⑥空堀」を堀り、その中心に小さな平坦地を設けて兵を待機させているわけです。
横から見ると
手前(本曲輪側)空堀、真ん中に土橋、奥(二の曲輪側)に空堀
右手虎口方向、左手に馬出平坦地、という構造になっています。



「⑥本丸側空堀」




「②二の曲輪」
本曲輪と同じ尾根頂上部の南側に築かれ、虎口から侵入する敵を迎え撃つ曲輪です。



先に紹介したとおり二の曲輪からは、東尾根(大手山道)、三の曲輪、台所曲輪を見下ろすことができます。それぞれに殺到した敵を上段から横矢をかけることができる、絶妙な配置となっています。
東尾根(大手山道)方向


三の曲輪方向


台所曲輪方向




「①本曲輪」
尾根の頂上北側の曲輪
東側は谷に面し、他は頂上部の高台を切岸として自然の地形をうまく利用して築かれています。

虎口から空堀の脇を登っていきます。


本曲輪平坦地



東側は谷に面し急峻な崖となる天然の要害



西側の平坦地では発掘調査が行われています。
台所曲輪での調査とともに新たな発見が期待されます。



本曲輪からの眺望
眼下に岩手の城下町、小学校の建物周辺が竹中氏陣屋で、当時の居館もその辺りにありました。



本曲輪東側の「腰曲輪」



北側斜面に掘られた竪堀




まとめ
ヤマップ3Dによる移動ルートと地形
岩手の町に居館があり、背後の山に詰めの城を築いたことがよくわかります。今回の登城ルートは左手前方向の短くて急峻なルートでしたが、舘がある尾根筋からの大手道が、距離は長いですが比較的平坦に見えます。



等高線のある地図上での曲輪の配置と移動線



ヤマップ行程データ
時間:2時間35分
移動距離:3900m
駐車場からの比高:350m
とにかくキツかったですが、ハイキングコースとして大勢の人が訪れていました。



来てよかった。
遺構が整備され、ジジィでもよくわかった。
草刈り、樹木の伐採、維持管理に敬意を表します。
そして、縄張図。正確で見やすく、すごく頼りになりました。ありがとうございました。何より、自然地形を活かした技巧的な縄張り。山城の最終形態と言って良いのではないでしょうか。ぜひ県指定史跡、いや、国の史跡指定を目指して頑張ってもらいたいですね。

【菩提山城】
《》

名称(別名);ぼだいさんじょう(岩手城)
所在地;岐阜県不破郡垂井町岩手
城地種類;山城
標高/比高;401m/335m
築城年代;永禄2年(1559)
廃城年代;慶長5年(1600)
築城者;竹中重元
主な改修者;
主な城主;竹中氏
文化財区分;垂井町指定史跡
主な遺構;曲輪、竪堀、堀切、土橋、土塁、馬出
近年の主な復元等;


※出典、、、垂井町観光協会HP、現地案内板、その他
地図;


【御城印・櫓門印】
取扱店;岩手地区まちづくりセンター
住所;503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手608-2 (黒田陣屋隣)
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